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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第365回) 2004/11/14
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人28   

  1. 『歎異抄』の第十八条

  • 第十八条 現代語訳

 道場や道場主に寄付をする場合、その金額の多少によって、たくさん寄付をすれば大き な仏さまになり、少しの寄付だと小さい仏さまになるということについて。

 このことは言語道断、とんでもないことで、まったく道理に合わないことです。


 それは、まず第一に、仏さまのおからだを大きいとか小さいとかいうことは、もともと ありえないことです。たしかに『観無量寿経』には浄土のが阿弥陀さまの身長は、 「六十万億那由他恒河沙由旬」といい、それはそれは、ほかり知れない大きさであると説いて います。しかし、仏さまはもともと色や形でもって表現することはできません。けれども、 それではわたしたちにはわかりませんので、その存在を知らせようとして仮に示されたお 姿なのです。真実のさとりを開かれた仏さまには、そのおからだが、長いとか短いとか、 四角であるとか丸いとか、さらに青・黄・赤・白・黒など色彩のちがいもまったくありま せん。したがって、大きい仏さまとか小さい仏さまなどの区別をすることがどうしてでき ましょうか。

 念仏すると、仏さまの姿を見させていただくことがあるといいます。そのことを 『大集経』に、 「大きい声で念仏すると大きい仏さまを見、小さなで念仏すると小さな仏さま を見る」とあります。あるいはこの説なとにこじつけて、寄付金の多少にしたがって、大 小の仏になるなどといったのでしょうか。

 金品を寄付することは、檀波羅密(布施)の行といって仏教徒のなすべき基本的な行の 一つです。しかし、どのようなすばらしい宝物を仏前に供え、また師匠に施したからとい っても信心がなければなんの意味もありません。たとえ一枚の紙やわずかの銭を寄付する ことがなくても本願他力の教えをふかく信じる人は、それこそ阿弥陀さまの願いにかなう ことといえましょう。寄付の多少によって大小の仏になるなどということは、つまるとこ ろ物欲を仏法にかこつけて念仏する仲間をおどしていることになるのではないでしょうか

  • 第十八条 原文
仏法のかたに、施入物の多少にしたがつて、大・小仏に なるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。此興のことなり

 まづ、仏に大・小の分量をさだめんこと、あるべからずさ ふらうか。かの、安養浄土の教主の御身量をとかれてさふら うも、それは、方便報心のかたちなり。法性のさとりをひら ひて、長短方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒の いろをもはなれなば、なにをもつてか、大小をさだむべきや。 念仏まふすに、化仏をみたてまつるといふことのさふらうな るこそ、大念には大仏をみ、小念には小仏をみるといへるか、 もし、このことはりなんどにばし、ひきかけられさふらうや らん。

 かつは、また、壇波羅蜜の行ともいひつべし。いかに、た からものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけ なば、そのなし。一紙・半銭も仏法のかたにいれずとも、 他力にこころをなげて、信心ふかくは、それこそ願の本意に てさふらはめ。

 すべて、仏法にことをよせて世間の欲心もあるゆへに、 同朋をいひをどさるるにや。

  • 第十八条 要旨

 この条には、「施量別報」の異議を批判する。施量 別報とは、道場や道場主に信者が金品を寄付するとき、金 額などの多少によって浄土に生まれたときに違いがでてく るという主張である。

 この異義は、第十三条の「怖畏罪悪」、第十四条の「念 仏滅罪」、第十六条の「自然回心」などとともに、専修賢善の流れに属する異義である。

 この異義は、「施物だのみ」ともいわれ、道場を拠点に 念仏者の集団が形成されると、道場の運営費や道場主の生 活費などを調達する過程で、このような説をたてて、仏法 にことよせて私利を追求するものがでてきたのであった。