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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第382回) 2006/5/21
千葉 乗隆

  1. 東国伝導 関東は振興の政治・文化の中心地
 法然上人と親鸞聖人は配流4年後の建暦元年(1211)11月に罪を赦された。 法然上人は翌年正月に80歳で死去。親鸞聖人は3年ほど越後にとどまったのち、東国へ出発した。

 親鸞聖人の配流地は信濃善光寺に隣接する地域で、親鸞聖人はこの寺の念仏 聖(諸国をまわって念仏をすすめる僧)と交流があったようである。

 親鸞聖人生存中の姿を描いた「安城御影」の服装や所持品などが、念仏 聖たちのものと一致する。親鸞聖人は晩年に『善光寺如来和讃』を作って、 「善光寺の如来の、われらをあはれみましまして、なにはのうらにきた ります(善光寺の阿弥陀如来は私たちをあわれみ救うために、百済(朝 鮮半島の国)からはるばる日本の難波(大阪)の港にわたって来られた)」 といっている。また『親鸞聖人伝絵』に親鸞聖人の姿を描こうとした絵師が 「夢にみた善光寺本願の御房とそっくり」と言ったという話がしるされ、 善光寺と親鸞聖人とは深い関係があった。

 建保2年(1214)、越後から常陸(茨城県)へ向かう途中、上野(群馬県) 佐貫での出来事が、後年の恵信尼の手紙にみえる。それは親鸞聖人が人びと の幸福を願って『浄土三部経』を千部読もうとしたことである。

 阿弥陀仏の浄土に生まれるための行に、読誦観察礼拝称名讃嘆供養の5つの行があり、読誦とは何回も経典を読むことであった。 しかし、法然上人は5つの行の中の称名を選び、阿弥陀仏の名をとなえるこ とが、助かる道であると説いた。親鸞聖人は比叡山で読経の行を積み重ねて いた習慣によって、三部経千部読誦をはじめたようである。しかし、専 修念仏者にとって、称名よりほかになすべきことなく、ただ念仏によっ て救われることを一人でも多くの人に伝えることが人びとに幸福を分か ちあうことになるのだと思い返し、読経を中止したという。