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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第388回) 2007/1/21
千葉 乗隆

  1. 親鸞聖人の墓所「大谷廟堂」 雨や風にうたれる野ざらしの墓
 東国から墓参に来る門弟たちにとって、その質素な墓はさびしい思いを抱かせたので、墓をおおう建物を造った。

 親鸞聖人の晩年を世話した末娘覚信尼(一二二四〜八三)は、親鸞聖人の死 後、小野宮禅念と再婚した。小野宮の家は、親鸞聖人の墓所の近くにあつた。 ここに門弟たちは親鸞聖人の死後一〇年目の文永九年(一二七二)に堂を建て て墓を移し、大谷廟堂と称した。

 当初は堂内には石塔だけが建っていたが、二〇余年後の永仁三年(一二九五) 頃に親鸞聖人の木像を安置した。これ以後は大谷影堂と称した。

 廟堂の土地は禅念が覚信尼に譲り、覚信尼はこれを門弟の共有地とした。廟 堂の管理(留守職という)には覚信尼が当り、以後はその子孫が東国門弟の承 認を得て就任することにした。廟堂の運営の費用は門弟が出し合った。
 弘安六年(一二八三)、覚信尼は先夫日野広綱との間に生まれた長男覚恵上 人(一二三九頃〜一三〇七)を留守職に指名した。

 正安三年(一三〇一)に親鸞聖人の長男即生房の孫、源伊が留守職就任を 主張した。これをきっかけに、覚信尼と小野宮禅念との間に生まれた唯善が留 守職を望み、覚恵を大谷から追放して影堂を占拠した。この衝撃で覚恵は発病 し、後事を長男覚如上人(一二七〇〜一三五一)に託し、徳治二年(一三〇七) 四月十二日に死去した。

 覚如上人と東国門弟は事件の処理を青蓮院に訴えた。延慶二年(一三〇九) 敗訴を予知した唯善は、親鸞聖人の遺骨と木像を奪い、墓塔と影堂を破壊して、 鎌倉の常葉に逃げた。
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以下にテキストの右ページ部分を記載します
  1. 廟堂の留守職をめぐる争い
 覚恵が留守職を継ぐと、唯善は 常陸(茨城県)の唯円(「歎異抄」 の著者)の門弟になった。しか し、生活が苦しかったので覚恵 は唯善を京都に呼び同居した。

 150坪(約500平方メートル)ほ どの大谷廟堂は二家族が同居す るには手狭であったので、東国 門弟は廟堂の南隣に150坪の 土地を買い、ここに唯善が住ん だ。

 やがて唯善は大谷廟堂を奪 取する野望を抱いた。東国門弟 の中で下総(干葉県)の横曽根門 徒の智信など唯善を支持する門 弟もいたので、唯善は彼らの支 援で留守職に就任しようとし た。

 いっぽう、常陸の鹿島門徒 の順証や下野(栃木県)の高田門 徒は覚如を支持して、唯善を敗 訴させた。
唯善:私が留守職になる
源伊:いや私だ
覚恵:青連院様に決めてもらおう
唯善:留守職になれないのならここに用はない


木柵で囲まれた親鸞聖人のお墓「善信聖人伝絵」(本願寺蔵)

 親鸞聖人の墓「親鸞聖人伝絵」(専修寺蔵)   大谷廟堂「親鸞聖人伝絵」(専修寺蔵)
左:親鸞聖人の墓 右:大谷廟堂 共に「親鸞聖人伝絵」(専修寺蔵)
 
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