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親鸞聖人の墓所「大谷廟堂」 雨や風にうたれる野ざらしの墓
東国から墓参に来る門弟たちにとって、その質素な墓はさびしい思いを抱かせたので、墓をおおう建物を造った。
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親鸞聖人の晩年を世話した末娘覚信尼(一二二四〜八三)は、親鸞聖人の死
後、小野宮禅念と再婚した。小野宮の家は、親鸞聖人の墓所の近くにあつた。
ここに門弟たちは親鸞聖人の死後一〇年目の文永九年(一二七二)に堂を建て
て墓を移し、大谷廟堂と称した。
当初は堂内には石塔だけが建っていたが、二〇余年後の永仁三年(一二九五)
頃に親鸞聖人の木像を安置した。これ以後は大谷影堂と称した。
廟堂の土地は禅念が覚信尼に譲り、覚信尼はこれを門弟の共有地とした。廟
堂の管理(留守職という)には覚信尼が当り、以後はその子孫が東国門弟の承
認を得て就任することにした。廟堂の運営の費用は門弟が出し合った。
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弘安六年(一二八三)、覚信尼は先夫日野広綱との間に生まれた長男覚恵上
人(一二三九頃〜一三〇七)を留守職に指名した。
正安三年(一三〇一)に親鸞聖人の長男即生房の孫、源伊が留守職就任を
主張した。これをきっかけに、覚信尼と小野宮禅念との間に生まれた唯善が留
守職を望み、覚恵を大谷から追放して影堂を占拠した。この衝撃で覚恵は発病
し、後事を長男覚如上人(一二七〇〜一三五一)に託し、徳治二年(一三〇七)
四月十二日に死去した。
覚如上人と東国門弟は事件の処理を青蓮院に訴えた。延慶二年(一三〇九)
敗訴を予知した唯善は、親鸞聖人の遺骨と木像を奪い、墓塔と影堂を破壊して、
鎌倉の常葉に逃げた。
以下にテキストの右ページ部分を記載します
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廟堂の留守職をめぐる争い
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覚恵が留守職を継ぐと、唯善は
常陸(茨城県)の唯円(「歎異抄」
の著者)の門弟になった。しか
し、生活が苦しかったので覚恵
は唯善を京都に呼び同居した。
150坪(約500平方メートル)ほ
どの大谷廟堂は二家族が同居す
るには手狭であったので、東国
門弟は廟堂の南隣に150坪の
土地を買い、ここに唯善が住ん
だ。
やがて唯善は大谷廟堂を奪
取する野望を抱いた。東国門弟
の中で下総(干葉県)の横曽根門
徒の智信など唯善を支持する門
弟もいたので、唯善は彼らの支
援で留守職に就任しようとし
た。
いっぽう、常陸の鹿島門徒
の順証や下野(栃木県)の高田門
徒は覚如を支持して、唯善を敗
訴させた。
唯善:私が留守職になる
源伊:いや私だ
覚恵:青連院様に決めてもらおう
唯善:留守職になれないのならここに用はない
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木柵で囲まれた親鸞聖人のお墓「善信聖人伝絵」(本願寺蔵)
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