安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
妙音
千葉山安楽寺機関誌 平成24(2012)年脇町春版
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◎春彼岸会 永代経法要 ご案内 春分の日
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平成24(2012)年 春の法要ご案内 彼岸会 永代教法要 |
年月日 |
平成二十四(2012)年三月二十日(火) |
時
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十二時 読み上げ |
午後 一時 法要 法話 |
場所 |
場所 安楽寺本堂 美馬市脇町大工町403 |
講師 |
講師 片岡 雅子 師 |
例年は、午前・午後に分けていましたが、纏めて一回に致します。ご注意下さい。 |
どなたでもお参りして頂けます。皆様おさそいあわせのうえ、ご参詣下さい。 |
昼食の用意をしています。お早めにお越しください。 |
- ◎「お彼岸」とは
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お彼岸とは、佛教でいう到彼岸を言い習わした言葉です。
彼岸とは、彼の岸ーお浄土ー仏様の世界のことです。
対して此岸とはー娑婆ー苦悩に満ちた私達の現実の世界です。この現実の迷いの世界から、理想の悟りの世界に至ることを到彼岸(パーラミッタ)と言います。
奈良時代に、仏法に逢い(聴聞)、自己を振り返り、心新たに一歩を踏み出す日にしてほしいと制定された、日本独自の法要です。
念仏のご縁に結ばれた命は、阿弥陀様のお浄土に、仏様となって生まれ、今はお浄土の仏となられた方々が、阿弥陀様と共に常に見護って下さいます。ご法要に参って、御法話に耳を傾け、自分自身を反省し、仏様のご恩を感謝し、お徳を讃えましょう。
水あげ・施餓鬼を必要としないのが、お念仏の教えです。大切なことは、阿弥陀様の願いを聞かせていただくことです。彼岸会を別名「讃佛会」と申します。
- ◎「永代経」とは
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お念仏と共に歩む人生は、お浄土に生まれ(往生)必ず仏とならさせて頂く人生を、今生かされているのです。
今日一日を精一杯、「有り難いと」報恩感謝の日暮らしに、気づかされる智慧が恵まれます。
お浄土の門は、廣く開かれています=廣開淨土門(帰三宝偈)今こそがこの門をくぐらさせていただくときです。
この喜びの世界が「聴聞」によって開かれるのです。 故人を偲び お念仏の教え(経)を、永代に亘って伝えたいの想いで勤められるのが、永代経法要です。教えを伝えるために、施設が必要になります。法要も経費を伴います
門徒が懇志を持ち寄って営むのが慣わしです。
浄土真宗では、旧来、家族が亡くなられた時をご縁に、お育てに預かった阿弥陀様への御礼の懇志として、永代経懇志を進納する習慣があります。懇志は寺院の維持荘厳に用います。お念仏相続の喜びを永代経懇志として運びます。法要を営み、一人でも多くの人に、ご縁を結んでいただくお手伝いです。続いてのご協力をお願いします。
- ◎お手伝い
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お寺は、御門徒の懇志によって維持運営されます。建物を持ち、行事を勤めるには、経費を伴います。これに「お手伝い」として懇志を進納して頂いております。
行事の案内方々、お世話人に帳を回していますので、ご無理のないところで御記帳進納いただきますようご案内致します。
春のお手伝いは
- 春彼岸会・永代経法要費
- 安楽寺境内地建物維持管理費
- 建造物火災保険費
- 電気・電話・水光熱費
- 警備費等 に当てられます。
- ◎佛教婦人会会費について
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佛教婦人会では、「念仏の声を世界に 子や孫に」のスローガンの基、お念仏を喜ぶ活動をしています。
左の写真は2011報恩講でのお手伝い風景です。
各戸から年会費二千円のご協力をお願い致します
- ◎毎月二十日は、お寺の日
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本願寺派の布教使が、全国各地から、ご法話を届けに来られます。
聴聞は門徒のたしなみ、一回でも多く聞かせて頂きたいものです。
婦人会のお接待があります。
会員の心づくしのお料理に舌鼓を打ちながら、大きな笑い声が聞こえてきます。
午後一時から三時頃まで。楽しいひとときを
どなたでも参れます。
昼食は 十二時から お早めにお越しください。
- ◎婦人会活動について 安楽寺仏教婦人会会長 井上チエ子
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○私たちの活動
安楽寺は、多くの観光客が訪れる脇町の「重要伝統的建造物群保存地区」(うだつの町並み)から百メートルほど北西に位置します。
安楽寺は、平成七年に改築されましたが、私たちは、以前より、ご住職から歎異抄の解読をいただいておりましたので、これを機会に仏教婦人会としての活動について話し合いました。この時、お寺から毎月二十日に常例布教を提案いただきました。「聴聞の機会が増える。」「念仏の輪が広がる。」ことから「毎月二十日はお寺の日」と定めて、何ができるかを相談しましたところ、「お斎をしたら」「清掃奉仕をしたら」と意見が出され、寺を中心に、五区に地域割りをして、当番制でこれに当たることとしました。
毎月二十日は輪番制で、お斎(五十人分)・境内清掃・本前供花などをして聴聞に来る人々をお迎えしています。
また、春季彼岸会・報恩講には、会員総出で清掃・お斎(百十人分)の奉仕。十二月三十一日には除夜会、引き続いて、元旦修正会にお正信偈唱和、おぜんざいのおもてなし。帰省した家族がそろって参拝される姿に感動します。
最近では、キッズサンガ活動の一環に、子供たちに呼びかけて、八月十五日に平和の鐘をつきます。これには、、戦争体験を語る会も開いています。
毎月の「お斎」当番は、各地区の特産品を生かした献立をします。山間地では、そばを栽培していますので、手打ちそばを、旬の野菜を活用して総菜を作ります。それぞれに工夫をして総菜を提供しています。もちろん新米ができればお仏飯のお裾分けでおいしくいただきます。調理方法の交換会もされます。食材はほとんどが自産自消です。調理方法・盛りつけ・お味などを褒められて満足感に浸っています。
みんなで、協力し「和の心が」育ちます。仏の友の語らいからは、笑い声が絶えません。
食事を共にして、本堂に移動。真宗宗歌・らいはいのうた・布教師さんのご法話に、涙を流したり、笑ったり、うなずいたり、充実したひとときを過ごします。恩徳讃を唱和して、
ティータイム、茶菓をおすすめし、全体への連絡事項をお伝えし、次の当番地区の人たちは、献立の話し合いに和気あいあい話し声が耐えません。
研修として、県の仏婦大会に参加。日帰り研修旅行も計画しています。親鸞聖人七百五十回大恩忌法要にも一泊班・日帰り班と参拝いたしました。
寺に新築の香りがしていた頃、お庭でボール遊びや、隠れんぼをしていた子供たちの声がさっぱり聞こえなくなりました。夏休みのお寺の日はこどもの日と決めていましたが、ずいぶんと少なくなっています。少子化とかたづけるのはさみしくあります。あの賑やかな笑い声が戻ってくるように念じる毎日です。
陰ひなたなく見守ってくださる、安楽寺様に心よりお礼申し上げます。
- ◎何故お仏壇が家にあるのでしょうか
子供に聞かれて 困ってしまったことがありませんか
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学ぶことが禁じられていた江戸時代、唯一学ぶことの出来る場所がお寺でした。浄土真宗では、阿弥陀様の願いを聞いて、一人一人の命の大切さを学びました。ものの善し悪しを学び、いかに我が命を大切に生きるかを学びました。我が人生の行く末、後生の一大事を学んだのです。お寺の阿弥陀様の前で学んだことを、家の阿弥陀様の前で伝える。お寺にご安置してあるように我が家にもご安置したい。仏さまをご安置する場所「お床」を作ります。金仏壇が出現します。家の主がお給仕をします。家族を集めてお勤めを致します。お寺で学んだことを、家族に「わが命を大切にするように」と教えました。
阿弥陀様は、私のことを、「一子児のごとく憐愍す」とあります。阿弥陀様の願いに気づいた、親から子へ、子から孫へ、水が流れるように伝える、努力が必要な時になっています。子を思う親の願いが伝わらなくなって、命の大切さ尊さが解らない子が育っているように思われます。「油断あるまじきこと」は、蓮如様の言葉です。いつも阿弥陀様と一緒の生活を忘れないようにと、お仏壇があるのです。先祖の霊を慰める場所ではありません。今、私がいかに生きるかを学ぶ場所と心得て下さい。「我が為にいただくお聖教」を声に出して勤めます
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◎親鸞聖人御一代 第十一回
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○親鸞聖人の生涯
写真は親鸞聖人伝絵より「」
聖人は、みずからを虚仮不実の清浄心なき愚かな人間、すなわち凡夫であるといっている。この「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という考えは、念仏門に入っていらい、その生涯を貫く姿勢であった。悟りへの行を修することのできぬ凡夫が、在家の姿そのままで救われる道を、自ら歩むとともに人々に示したのであった。
その聖人にとって、ともに念仏するものは、みな仏弟子で同行・同朋であった。それゆえ、「親鸞は弟子一人ももたず候」といって自ら師となることを否定し、「弥陀の御もよおしにあずかって念仏申し候ふひとを、我が弟子と申すこと、きわめたる荒涼のことなり」といっている。これは、曇鸞の「同一に念仏して、別に道なきがゆゑに、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」を受け継ぐものであった。
覚如の口伝抄には、聖人の門弟の常陸国新堤の信楽が、教えに背いたとき、聖人の侍僧蓮位が、信楽に与えられた本尊や・聖教を、取り戻されてはいかがですかと、進言したときに、聖人は、「本尊や・聖教を返還させることはすべきでない、念仏の法は、この親鸞が授けたものでなく、仏よりたまわったものである。
親鸞は、弟子一人もおらず、みな仏の弟子である。本尊や・聖教は人々を教化するために、仏のおぼしめしによって、私が仮にあたえたものであって、この親鸞のものではない。したがって、信楽が私にそむいたからといって、それを取り戻すべきではない。もしも信楽が仮に本尊・聖教を山野に捨てたとしても、その所の有情群類(いきとしいくるもの)が、その聖教に救われることになる。」といったと伝えられている。
地球上の全生物のいのちの尊さと、彼らとの共存に留意していたことが知られている。自らの信をひろく人々に分かち合おうという、聖人の熱心な伝道によって、東国における念仏の輪は次第に大きくなっていった。その念仏の集団では、源空聖人の命日である二十五日に、毎月集会を開くなど定期的な行事も開かれるようになった。東国念仏者の集いは、農民庶民などいわゆる民衆でしめられていた。
聖人在世中の念仏者の正確な数は把握できないが、「交名帳」によってうかがい知れる。これは、聖人示寂後、放浪して念仏を広める一団があり、社会秩序を乱すとして幕府から取り締まりを受けたとき、聖人の門流はそうした集団とは違うことを、幕府に申し立てるための添付名簿である。交名帳に見られる国別人数は、常陸二十・下総五・下野五・武蔵一・陸奥七・越後一・遠江一・京都八の計四十八人が直接聖人から教えを受けた者として記載されている。
親鸞聖人は京に帰られるが、関東では、真仏・顕智の高田門徒、性信の横曽根門徒など、門徒が教団を形成してゆく。
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