親鸞聖人七百五十回大遠忌 法要の円成に向けて
浄土真宗本願寺派 本願寺 平成17(2005)年9月
千葉山安楽寺 千葉 乗隆   
     
○まえがき
 平成二十四(2012)年一月十六日は、宗祖親鸞聖人七百五十回忌に当たります。本願寺では、修復を終えた御影堂で平成二十三(2011)年四月から二十四(2012)年一月の間に法要修行を勤めると共に併せて記念事業も実施されます。

 これに関連して「親鸞聖人七五〇回大遠忌についての消息」が平成17(2005)年1月9日(ご正忌報恩講初日)にご門主さまよりご発布されました。この詳細は冊子「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要の円成に向けて」に掲載されています。又 この冊子に住職千葉乗隆が「親鸞聖人のご生涯とみ教え」を寄稿しています。
親鸞聖人のご生涯とみ教え ご消息をいただいて
     
 ○聖人のご経歴
 親鸞聖人は承安三年(一一七三)にご誕生になり、九歳のとき出家得度されました。いらい九十歳でご往生されるまでの間は、波瀾に富んだご生涯でした。

 しかし、聖人はご自身の経歴については、ご本典(『顕浄土真実教行証文類』)の「化身土巻六」の後序(『註釈版聖典』第二版四七一〜四七三頁)に、まず「承元の法難」の経緯を詳細に記され、ついで源空聖人のもとで本願を信じ念仏する身となられたこと、『選択本願念仏集』と影像をたまわったことを記しておられるだけで、その他の出来事は述べておられません。  聖人のご経歴とご教化の空白の部分を明らかにしたのが、内室恵信尼さまのお手紙(『恵信尼消息』)と、門弟の唯円が書いた『歎異抄』でした。

 聖人の曾孫覚如上人は、ご本典・『恵信尼消息』・『歎異抄』に記された聖人のご事績と、みずから東国の聖人のご遺蹟を訪ねて遺弟たちから聞き取り調査を行った成果をとりまとめた聖人の伝記絵巻『本願寺聖人親鸞伝絵』(その詞書をまとめたのが『御伝鈔』)を作製しました。それは聖人の三十三回忌の翌年、永仁三年(一二九五)のことです。この『御伝鈔』は、親鸞聖人の最も信頼できる伝記といえます。
 ○聖道門から浄土門へ
 出家した聖人は範宴と称され、天台宗比叡山で堂僧として学問と修行に励まれました。堂僧とは、阿弥陀仏を安置する常行三昧堂に奉仕する僧でした。

 聖人は比叡山の二十年間にわたる修行に、さとりを得ることができず、建仁元年(一二〇一)二十九歳のとき、山を下り六角堂に百日の参籠を志し、身の処し方について教えを請われました。九十五日目の明け方に、聖徳太子が現われて、偈文をとなえて行くべき道を示されました。この太子の指示にしたがい源空聖人のもとをたずねられたのでした。  『恵信尼消息』の、聖人が六角堂に参籠されたことをしるした文中には、太子示現の文を別紙に書いて書状に添えて覚信尼さま(親鸞聖人の末娘)に送ったとあります(『註釈版聖典』第二版八一四頁)が、その別紙は紛失していて、偈文がどのような内容であったかはわかり ません。

 太子のすすめにより聖人は源空聖人のもとへ百日の間、仏法聴聞に通われて、ついにお念仏をよろこぶ身となられました。  このことを聖人はご本典に「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(『註釈版聖典』第二版四七二頁)と記しておられます。

 聖人三十一歳の建仁三年(一二〇三)四月五日の夜、六角堂の救世観音菩薩の夢告がありました。(『御伝鈔』〔『註釈版聖典』一〇四四〜一〇四六頁〕)それは「仏道を修行する者が、何かの縁によって、女性と結ばれることがあるならば、わたくしがその女性になりかわり一生の間、仲よくし、臨終には極楽浄土へ一緒に参りましょう」という内容でした。

 聖人はこの夢告を得て、やがて恵信尼さまと結婚され、妻子とともに過ごす在家の生活を続けつつ、仏法に生かされる道を見出されたのでした。

 聖人三十三歳の元久二年(一二〇五)に源空聖人の著された『選択本願念仏集』の書写と師聖人の影像を授かりました。このことは師匠の教えを正しく受け継ぐ門弟だけが許されることです。
 ○承元の法難
 聖人三十五歳、承元元年(一二〇七)に「承元の法難」と称する政治権力者による専修念仏者の弾圧がありました。聖人はこのことをご本典の「後序」に、後鳥羽上皇が個人的ないかりでもって、源空聖人など八人を流罪、安楽房など四人を死罪にしたのは、道理にそむく処罰であると強く批判されたのでした。

 弘仁元年(八〇九)、嵯峨天皇は死罪を廃止されました。しかし、親鸞聖人がご誕生になる十七年前の保元元年(一一五六)に起こった「保元の乱」に死罪が三四六年ぶりに復活し、いらい源平両氏の争いに死罪が行われました。しかし、罪のない僧を死罪や流罪にすることは前代未聞の不法行為で、親鸞聖人はこのことを強く批判されたのでした。
 ○東国をご教化
 聖人は越後(新潟県)に配流されて五年後に赦されました。しかしなお三年ほどこの地に留まられたのち、東国ご教化の旅に出られたのでした。

 上野(群馬県)佐貫に滞在しておられたときの出来事が恵信尼さま のお手紙(『恵信尼消息』〔『註釈版聖典』第二版八一五〜八一七頁〕)にみえています。それは聖人が人びとの幸せを願って、『浄土三部経』を千部、読もうと思いたち、はじめられました。しかし、念仏者にとって称名よりほかになすべきことなく、念仏によって救われることを一人でも多くの人に伝えることが人びとに幸せを分かち合うことになるのだと思い返して、読経を中止されました。

 それから十七年後の寛喜三年(一二三一)に聖人は風邪で発熱されたとき、『大無量寿経』を読むご自身の姿に気づかれました。どうしたことかとかえりみますと、ずっと以前に『三部経』を千部読もうとして中断したことがあったが、あの時のお経を読もうとした心がまだ少し残っていたのかと思われ、人の執心、自力の心は容易にぬぐい去ることができないことを知らされたと、聖人は恵信尼さまに語られたということです。

 聖人は東国各地で二十年余り伝道に努められた結果、多くの門弟や門徒が浄土真宗に帰依しました。その門弟の名簿『親鸞聖人門侶交名帳』には四十八人の名がしるされています。この名簿以外に、聖人のお手紙などに三十人ほどの名がみえますので、聖人から直接教えを受けた直弟子は百人ちかくになります。さらに直弟子にはそれぞれ数十人の門徒がいましたので、それらを合算しますとかなり多人数になります。  聖人は「弟子一人ももたず候ふ」(『歎異抄』〔『註釈版聖典』第二版八三五頁〕)といわれて、ともに念仏する者はみな仏の弟子で、同行・同朋であり、師弟上下の関係によって規律する教団の形成は望まれませんでした。

 しかし、聖人の晩年に東国の念仏者の中に教義を誤解したり、秩序をみだす者が出ると、正しい念仏を護るために念仏者の連帯強化を要請されました。

 その念仏者の連帯は有力な直弟子を中心に結集し、直弟子の居住する地名を集団の名称としました。たとえば、下野(栃木県)高田の真仏を中心とする集団は高田門徒、下総(茨城県)横曽根の性信を中心とする集団は横曽根門徒と称しました。
 ○聖人の帰京
 嘉禎元年(一二三五)、聖人六十三歳のとき、鎌倉において源頼朝の妻北条政子の十三回忌の供養に『一切経』の書写が行われました。このとき聖人は書写本と原本とを照らし合わせる校合に参加されたといわれ(『口伝紗』〔『註釈版聖典』八八四〜八八六頁〕、この作業を終えられたのち、京都に帰られたようです。

 聖人が帰京された理由の一つにご本典の完成が挙げられます。聖人は東国ご教化のかたわら、ご本典の執筆をはじめられ、身辺にたずさえて絶えず修正を加えられ、寛元五年(一二四七)聖人七十五歳のころにその作業を終えられました。

 聖人は念仏の喜びを和讃(うた)に託して人びとに伝えようと、宝治二年(一二四八)に『浄土和讃』と『高僧和讃』を、十年後に『正像末和讃』をつくられました。  またご消息(お手紙)によって東国門弟のご教化につとめられました。聖人八十八歳の文応元年(一二六〇)十一月十二日付の常陸(茨 城県)の乗信房に宛てたご消息(『註釈版聖典』第二版七七一〜七七二頁)に、「去年・今年、老少男女おほくのひとびとの死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まず善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり」としるしておられます。

 聖人は二年後の弘長二年十一月二十八日(一二六三年一月十六日)九十歳でご往生になられました。
 ○安楽寺注
 「親鸞聖人七五〇回大遠忌についての消息」が平成17(2005)年1月9日(ご正忌報恩講初日)にご門主さまよりご発布されました。この詳細は冊子「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要の円成に向けて」に掲載されています。又 この冊子に住職千葉乗隆が「親鸞聖人のご生涯とみ教え」を寄稿しています。