恵信尼消息
(連載第03回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第184号 2003/12 冬)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
-
◎恵信尼消息 第一通 その三
第一通は第1、2、3回の三回に亘り連載します
-
現代語訳
解説
本文(原文)
読者の声
-
○【現代語訳】 恵信尼消息 第一通 その三
-
1.(文永元年のお手紙の断簡)
-
またこの越後国(新潟県)は、昨年の農作物のできが特に悪く、それはなんともいえないようなひどい有様で、みんなは生きてゆけるのだろうかと不安に思いました。そのような状況の中で、なかには住居を変える人もいました。
凶作は私の住んでいるところだけでなく、益方のいるところも、また頼りにしていた人の土地でも同じような有様で、世間はみな被害をうけていますので、とても、あれこれと頼みにゆくところもありません。
このようにしていますうちに、長年いた男の使用人が二人、正月にいなくなりました。どうして、作物をつくったらよいのか、その方法もわかりませず、世に頼る人もなく大変心細く思いました。私自身はそう長く生きる身でもありませんし、この世に思い残すようなこともございません。しかし、私は一人暮らしではなくて、ここには親のない小黒女房の女の子と男の子がおりますうえ、益方の子どもも、またここに住んでいます。それで私はなんとなく母親になったような気がいたします。
しかし、みんなが生きのびることは難しい世の中であると思います。
-
2.(添書)
-
この文書は、殿(親鸞)が比叡山で堂僧をつとめておられましたが、山をおりて、六角堂に百日の間おこもりになり、後世のたすかるようお祈りになられましたとき、九十五日目の明け方、聖徳太子が現われられてお告げになつたときの文です。あなたに御覧いただこうと思い、書きしるして差し上げます。
-
○〔解説〕 恵信尼消息 第一通 その三
恵信尼消息 第一通 本文の書き出し部
-
今回、恵信尼消息第一通(三)の本文のはじめに、1(文永元年のお手紙の断簡)と項目をたてました。
この文の内容を検討しますと、第一通の弘長三年(一二六三)二月十日のお手紙の中に入れるべきではなく、翌年の文永元年(一二六四)のお手紙の断簡であると推定されます。
これは恵信尼さまのお手紙を巻子本に仕立てるときに、誤ってここに入れたものと思われます。
そこで、ここでは2(添書)をさきに解説することにします。
- (添書)
-
この添書(追伸ともいう)は第一通の本文の前の余白に、本文よりやや小さい文字でしるされ、余白が埋まると本文の行間の空白部にまで書きこんでいます。(添書:写真参照)
第一通の本文の前半に親鸞聖人が比叡の修行を断念して、六角堂に百日参籠し、聖徳太子の示現によって法然上人のもとに参られたことを述べられていますが、この添書はこのことに関連するものです。
この添書によってまず明らかになつたことは、親鸞聖人が比叡山で堂僧をつとめておられたということです。
比叡の修行者は、学問修行に専念する学生と、雑務を処理する堂衆が多数を占めていました。堂僧は常行三昧堂で不断念仏を修する僧でした。常行三昧堂における不断念仏とは、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名をとなえ、心に阿弥陀仏を念じながら九十日の間歩きめぐる行で、三昧とは心をひとつに集中してみださないようにすることです。 この念仏三昧の修行法は、比叡山を開いた最澄の門弟円仁が中国の唐の五台山で学び、それを日本に伝えたもので、最澄のはじめた法華三昧と並ぶ天台宗の主要な行法となりました。
この「山の念仏」(不断念仏)は比叡山横川の源信(浄土真宗の七高僧の一人)によってひろめられ、横川の首楞厳院が念仏の道場となりました。『御伝鈔』に「楞厳横川の余流を湛へて」(『註釈版聖典』一〇四三頁)とありますので、親鸞聖人は横川の首楞厳院の堂僧であったと思われます。
また「添書」に、恵信尼さまは、親鸞聖人が六角堂において聖徳太子から告げられた示現の文を書きしるしておくりました、とあります。
この示現の文は紛失して伝わっていませんので、その内容はわかりません。
私は本誌の前々号(No182)の解説の中で、太子示現の文は「聖徳太子廟窟偈」であろうと申しました。しかし、一説には「行者宿報設女犯」の偈文ではないかともいわれます。この偈文の内容につきましては、本誌の前号(No183)の解説にしるしましたので、ここでは省略いたします。
- (文永元年のお手紙の断簡)
-
このお手紙のはじめに、「越後は去年の不作で」とあり、去年とは弘長三年(一二六三)のことと思われます。「恵信尼消息」二(弘長三年二月十日)の中に「今年の飢渇にや飢
死もせんずらんとこそおぼえ候へ」(今年の飢饉にはうえ死にするのではないかと思いました)(『同』八一五頁)とあります。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』等に、弘長三年八月十四日に大風が日本列島を縦断し、京都・鎌倉をはじめ各国で家屋や農作物が大被害をうけたとみえていますので、このお手紙は文永元年(一二六四)に書かれたと推定されます。
このお手紙には、この頃越後に住んでおられた恵信尼さまのお子、小黒女房・栗沢信蓮房・益方大夫・高野禅尼のうち、小黒女房は亡くなられたので男女二人の遺児と益方大夫の子どもを引き取って養育しておられることがしるされています。
しかも、農地の耕作に従事していた男性二人が正月にいなくなつたとあります。『恵信尼消息』(六)文永元年五月十三日(『同』八一九頁)には、使用人がみなにげうせたとあり、同年正月に「男二人うせ侯ひぬ」とあるのも同じく逃げ出したということだと思われます。
田畑を作る人に逃げられ、大人数の家族をかかえて、生きる道を模索する恵信尼さまのご苦労が文面ににじみ出ています。
-
○【本文】 恵信尼消息 第一通 その三 原文
-
1.
(文永元年のお手紙の断簡)
-
またこの国は、去年の作物、ことに損じ侯ひて、あさましきことにて、おほかたいのち生くべしともおぼえず侯ふなかに、ところどもかはり侯ひぬ。一ところならず、益方と申し、またおほかたはたのみて侯ふ人の領どもみなかやうに候ふうへ、おほかたの世間も損じて候ふあひだ、なかなかとかく申しやるかたなく候ふなり。かやうに候ふほどに、年ごろ候ひつる奴ばらも、男二人、正月うせ候ひぬ。
なにとして物をも作るべきやうも候はねば、いよいよ世間たのみなく候へども、いくほど生くべき身にても候はぬに、世間を心ぐるしく思ふべきにも候はねども、身一人にて候はねば、これらが、あるいは親も候はぬ小黒女房の女子、男子、これに候ふうへ、益方が子どもも、ただこれにこそ候へば、なにとなく母めきたるやうにてこそ候へ。いづれもいのちもありがたきやうにこそおぼえ候へ。
-
2.(添書)
-
この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世の事いのりまうさせたまひける九十五日のあか月の御示現の文なり。御覧候へとて書きしるしてまゐらせ候ふ。
-
○【読者の声】 184号(2003 冬)によせて (185号掲載)
-
富山・青木れい子様:
現代語訳が分かりやすいです。
和歌山・平岡寿子様:
恵信尼さまの生涯について興味をもっていますので、良かったです。
島根・橋本都様:
現代語訳のおかげでありがたくお手紙の一文を拝読させていただきました。
鹿児島・田之上記代子様:
現代語訳がとても丁寧でしっかりと読ませていただきました。
|