恵信尼消息
(連載第04回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第185号 2004/03 春)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺

◎恵信尼消息 第二通

現代語訳 解説 本文(原文) 読者の声
○【現代語訳】 恵信尼消息 第二通

 この建仁元年の聖徳太子示現の文)を書きしるして、あなた(覚信尼さま)にさしあげますのも、殿(親鸞聖人)がご存命中には申す必要もございませんでしたので、申しあげませんでしたが、お亡くなりになられました今は、殿がこのようなお方であられたということを、あなたのお心のなかにだけ、記憶しておいてくださいますようにと思って、しるして差し上げます。文字の上手な人に、美しい字で書いてもらって、お持ちになってくださいませ。  また、あの、殿のお姿を描いた御影一幅、ほしく思っています。
 あなたがまだ幼い八歳でいらっしやつた年(寛喜三年(一二三一))の四月十四日より、殿のお風邪が大変悪くなられましたときの出来事などをも書きしるしました。

 今年、私は八十二歳になりました。一昨年の十一月から昨年の五月までの間は、いまにも死ぬのではあるまいかという日々を過ごしましたが、今日まで死なないでいます。今年の飢饉には飢え死にするのではあるまいか と思っています。
 このようなお便りを出します折に、なにも差し上げるものがございませんのは、気になりますが、どうすることもできません。
 益方殿にも、この手紙の内容をそのままお伝えください。ものを書くことも、気がすすみませんので、益方殿には別に便りも出さず何も申してはおりません。

   「弘長三年癸亥
    二月十日
○〔解説〕 恵信尼消息 第二通
親鸞聖人影像(鏡御影)・西本願寺蔵
親鸞聖人影像

 このお手紙のタイトルに「ゑちごの御文にて候ふ」としるした文字は、覚如上人がお手紙を整理されたときに書き加えられたものと推定されます。

 このお手紙をここでは第二通(『恵信尼消息』二)としました。しかし、その内容からしますと、第一通(『恵信尼消息』一)に続くもので、第一通、第二通というふうにしないで、第一通の後半部分と理解するのがよいのではないかとも思われます。

 それは、このお手紙の最初に「このを書きしるしてまゐらせ候ふも」とあり、「この文」というのは、第一通のはじめに、親鸞聖人が六角堂において「聖徳太子の」の示現 にあずかられたことをしるしておられる、その「太子示現の文」であると思います。

 さらに第一通の添書には、この「聖徳太子の文」を、あなた(覚信尼さま)にご覧いただこうと思い、書きしるして差し上げますとあります。このことは、恵信尼さまが「聖徳太子の文」を手紙の中にはしるさないで、別の紙に書いて覚信尼さまに送られたと推察されます。

 そこで恵信尼さまは第二通のはじめに、この「聖徳太子の文」について親鸞聖人が御存命中は、あなた(覚信尼さま)に申しませんでしたが、聖人がお亡くなりになられたので「聖徳太子の文」のことをお話しいたし、その「聖徳太子の文」の内容をしるしてお送りします、文字の上手な人に清書してもらいなさい、といっておられます。

 恵信尼さまが清書してもらいなさいといわれたのは、この「聖徳太子の文」は、親鸞聖人が法然上人のもとにおもむかれ、お念仏によって救われるきっかけになった大切な内容のなので、自分の拙い文字でなく、美しい文字でしるし保管しなさいという配慮をされたのだと思います。

 この恵信尼さまが書き送られた「聖徳太子の文」は残っておりませんので、その内容はわかりません。しかし、私は本誌の前々々号(No182)で述べましたように、「聖徳太子廟窟偈」であると推測しています。

   ○    ○  つぎに、お手紙に「またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり」としるしておられます。
 親鸞聖人のお姿を描いたあの御影がほしいとしるしておられますので、恵信尼さまが京都におられたとき、覚信尼さまとともにご覧になった、あの親鸞聖人の御影が一幅ほしいとのご希望です。

 恵信尼さまが所望された御影は、私の推測では西本願寺に現存する「鏡御影」のような簡素なデッサン(素描)で、聖人のお手元には数幅を所蔵しておられ、その中の一幅がほしいとのご要望かもしれません。

 「鏡御影」を描いたのは専阿弥陀仏という人で、彼は法然上人の肖像を描いた当時有名な画家であった藤原信実の子といわれます。 「鏡御影」は聖人が右向きに立たれた姿を描いた、彩色を施さない線描画のデッサンですが、同じく聖人の肖像画である「安城御影」にくらべて、聖人の生き生きとした活動的なお姿が力強く描かれています。

  ○   ○  ついで覚信尼さまが八歳の年、寛喜三年(一二三一)四月十四日から親鸞聖人が風邪にかかられ病が重くなられたときの出来事を書きしるしますと恵信尼さまは述べておられます。

 しかし、ここにはその出来事の内容はしるされず、このお手紙と同じ日付の二月十日(弘長三年)に書かれた第三通目(『恵信尼消息』三)に詳しく述べておられます。それは風邪のため発熱した聖人が『大無量寿経』を読んでおられたという内容です。

  ○   ○  そのつぎに恵信尼さまは、今年は八十二歳になられたことをしるされ、一昨年(弘長元年(一二六一))の十一月から昨年(弘長二年)の五月まで病気になられて、いまにも死ぬのではあるまいかと思っていましたが、なんとか今日まで生き延びてきました。しかし、今年(弘長三年)、飢饉が発生すれば飢死にするかもしれないといっておられます。
 恵信尼さまの飢饉へのおそれは的中して、弘長三年八月に大風が日本列島を縦貫し、越後が大被害を受けたことは、本誌の前号(No184)に述べた「文永元年のお手紙の断簡」と第五通(『恵信尼消息』七)にもしるされています。

  ○   ○  このお手紙の終わりに、恵信尼さまは、このようなお便りを差し上げるのにあたって、なにもお送りする品物がないのはたいへん心苦しいことですが、どうすることもできないので、お許しくださいと述べておられます。

 そして最後に、私は手紙を書くのも大儀になりましたので、越後から京都にのぼっておられる益方殿には、便りを出しておりませんので、この手紙の内容をお伝えくださいますようにとしるしておられます。

 なお、二月十日の日付の前にしるされた「弘長三年癸亥」の年号は覚如上人が書き加えられたものと思われます。
○【本文】 恵信尼消息 第二通 原文

 「ゑちごの御文にて候ふ」
  このを書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふベし。

  またあの御影一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり。

 今年は八十二になり候ふなり。一昨年十一月より去年の五月までは、いまやいまやと時日を待ち候ひしかども、今日までは死なで、今年の飢渇にや飢死もせんずらんとこそおぼえ候へ。かやうの便りに、なにもまゐらせぬことこそ心もとなくおぼえ候へども、ちからなく候ふなり。

 益方殿にも、このをおなじ心に御伝へ侯へ。もの書くことものうく候ひて、別に申し候はず。

   「弘長三年 癸亥
         二月十日
○【読者の声】 185号(2004 春)によせて  (186号掲載)

福井・下野光枝様:
 短い文章の中に心に染みる思いやりを感じ、心をうたれました。