恵信尼消息
(連載第06回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第187号 2004/09 秋)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
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◎恵信尼消息 第四通
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現代語訳
解説
本文(原文)
読者の声
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○【現代語訳】 恵信尼消息 第四通
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弘長三年(一二六三)二月十日付の手紙のなかに、善信の御房(親鸞聖人)が寛喜三年(一二三一)の四月四日からご病気になられたことを書きしるしました。しかし、あとで、そのときの日記をみますと、お経を読むことについて、「まこと、そうであろう」と仰せられたのは、四月十一日の明け方としるしてありました。それは発病された日から八日、すなわち四月四日から八日目にあたります。
わかさ殿お取りつぎくださいませ 恵信
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○〔解説〕 恵信尼消息 第四通
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恵信尼さまが覚信尼さまに宛てた弘長三年(一二六三)二月十日付のお手紙の第二通と第三通の中に、親鸞聖人がお風邪をひかれたことについてしるした文中の日付について、あとで日記と照合したところ、誤りがあったので訂正するという内容です。
恵信尼さまが日記をごらんになって訂正したいといわれたのは、二月十日付のお手紙に、経をよむことについて、「まこと、そうであろう」と仰せられたのは発病されて四日目としるしましたが、それは八日目の四月十一日の明け方のことであったということです。
ところで第二通と第三通には発病された日を四月十四日としるしておられます。しかし、この第四通には「二月十日付の手紙のなかに、寛喜三年の四月四日よりご病気になられた」と書いておられます。恵信尼さまは二月十日付の手紙に、四月十四日としるされたのを、四月四日と書いたと思いちがいをされたのでありましょう。
なお、このお手紙は覚信尼さまの侍女「わかさ殿」に宛てた書式になつています。
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このお手紙によって、恵信尼さまは、若い時からずっと日記をつけておられたことがわかります。
日記をしるすことなど、毎日の生活のありようについて、平安時代中期の貴族藤原師輔(延喜八年[九〇八]〜康和三年[一一〇一])は、子孫たちに毎日の生活の心得をさとした『九条殿遺誡』の中につぎのようにしるしています。
「朝起きると、まず自分の属する星の名を低い声で七回となえる(人は生まれると北斗七星のどれかに所属し、自分の星の名をとなえるとしあわせになるといわれていた)。つぎに鏡で自分の顔色を見、暦をめくって日の吉凶をたしかめる。それから歯をみがき、西に向かって手を洗い、仏の名をとなえ、自分の信ずる神を念じる。こうした行事を終えると、昨日の出来事を日記につけ、朝食のかゆを食べ、髪に櫛を入れる。…」
師輔の子孫で関白九条兼実(久安三年[一一四九]〜承元元年[一二〇七])も、右のような日常生活の中で、日記『玉葉』をしるしたのでありましょう。
兼実は法然上人に深く帰依し、浄土宗の聖典『選択本願念仏集』はその兼実の要請に応えて著わされたのでした。
親鸞聖人は法然上人のおすすめで、兼実の姫玉日と結婚されたということが『親鸞聖人御因縁』『親鸞聖人御因縁秘伝鈔』にしるされています。これらの本は、覚如上人が永仁三年(一二九五)に著わされた『親鷲聖人伝絵』とほぼ同じ頃に成立したと推測されます。『親鸞聖人伝絵』が史実に基づいてしるされているのに対し、『親鸞聖人御因縁』等は架空の話をまじえた談義本(民衆教化のための平易な説教本)で、史実に基づいて書かれているとは言いがたいところがあります。そして『親鸞聖人御因縁』等にいう兼実の娘に、玉日に該当する女性は存在しません。
親鸞聖人が結婚された恵信尼さまの父は三善為教で、恵信尼さまが誕生する四年前まで越後介(新潟県副知事)を勤めていました。このころ諸国の守(知事)や介(副知事)は中級の貴族が任命されており、三善為教はその中級貴族で、九条兼実家の家司(事務をとりしきる役目)であったという説があります。
そうだとすれば、恵信尼さまは三善家の娘として教育をうけ、日記をつける習慣を身につけられ、聖人と結婚後もこれを続けられたということです。
ところでこれまで三善為教は越後の豪族で、恵信尼さまと聖人の結婚は、承元元年(一二〇七)に聖人が越後に配流されてのちのことと推測されてきました。また最近まで、流罪に処せられたものは、妻と別れて単身で配流地に赴くと考えられてきました、。しかし、古代の法律「獄令」第十一条に「流人として処罰を受けた者は、妻を同伴して配所に赴け」という規定があり、実際に配所に妻を同伴した例があることが判明しました。このことから、聖人と恵信尼さまの結婚は京都でなされ、越後に同行されたのではないかと考えられます。
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恵信尼さまの日記に関連して、このころの女性の日記について述べることにします。
紀貫之(貞観一〇年[八六八]?〜天慶八年[九四五]?)は『土佐日記』に、「をとこもすなる日記というものを、をむなもしてみんとするなり」といって、女性に仮託してかな書きの日記をしるしました。そのころ男性の日記は漢文、女性はかな書きでした。
平安時代から鎌倉時代にかけて、女性も日記をつけていました。しかし、現存するものはきわめて少なく、これは日記をつける女性が多くなかったことを示すものでしょう。それらの日記をつぎに列挙しましょう。
『蜻蛉日記』(天禄三年[九七二]〜貞元元年[九七六])、藤原道綱の母の日記。夫の関白藤原兼家との結婚に筆を起こし、夫との不和、あきらめ、道綱への愛情など二十一年間の生活を日記風にしたためた女流日記文学の先駆です。
『和泉式部日記』(寛弘四年[一○〇七]成立)、和泉式部とその恋人敦道親王との交際の日記で、両者の贈答歌一四五首を軸に、心の交感を綴ったものです。
『紫式部日記』、寛弘五年(一〇〇八)七月の記事にはじまる一条天皇第二皇子敦成親王誕生の際の記述を中心に、宮中の行事や交友、自身の心情などをしるしています。
『更級日記』(康平元年[一〇五八]〜七年[一○六四])菅原孝標の娘の日記。父の任地の上総(千葉県)から帰京するころ筆を起こし、以後十年の回想録。
『十六夜日記』(弘安五年[一二八二])、藤原為家の妻阿仏尼が夫の死後、実子為相の所領播磨(兵庫県)細川庄を継子為氏が横領したので、訴訟のために鎌倉に下ったときの紀行文。
恵信尼さまの頃までの現存する日記は、およそ以上の通りです。もし恵信尼さまの日記が今日まで伝えられていたならば、親鸞聖人や初期真宗の動向などが、より詳しく明らかにされたことでありましょう。
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○【本文】 恵信尼消息 第四通 原文
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御文のなかに先年に、寛喜三年の四月四日より病ませたまひて候ひしときのこと書きしるして、文のなかに入れて候ふに、そのときの日記には、四月の十一日のあか月、「経よむことは、まはさてあらん」と仰せ候ひしは、やがて四月の十一日のあか月としるして候ひけるに候ふ。それを数へ候ふには、八日にあたり候ひけるに候ふ。四月の四日よりは八日にあたり候ふなり。
わかさ殿申させたまへ
ゑしん
(「註釈版聖典」817頁)
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○【読者の声】 187号(2004 秋)によせて (188号掲載)
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滋賀・川崎まつの様:
今回で六回目。待ちに待って読ませていただいています。知らなかったことばかりで恥ずかしいです。それにしても恵信尼さまのようなお方は今の世には居ない。
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