恵信尼消息
(連載第07回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第188号 2004/12 冬)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
-
◎恵信尼消息 第五通
-
現代語訳
解説
本文(原文)
-
○【現代語訳】 恵信尼消息 第五通
-
もしかしたら、京都まで送りとどけてくれるついでがあるかと思って、とりあえず越中までの使いに、この手紙を頼みました。
私は先年、八十歳のときに、いのちにかかわるような大病をしました。しかし八十三歳の歳にはきっと死ぬであろうと思っています。ある学者の方の書いたものにも、そのように申していますので、今年は死ぬことであろうと覚悟しています。そこで生きているうちに卒都婆を建てようと思って、五重の石の塔、丈七尺につくるよう注文しましたところ、塔師がひきうけてくださいましたので、出来上がったら、すぐに建ててみたいと思っています。
昨年の飢饉には、益方の子どもと、こちらの子どもと、その他の子どもたちや、上の者も下の者も多くおりますので、飢え死にさせまいといたしましたので、着るものもなくなりました。色染めしない白生地の着物をも作つてやれない有様です。…(以下欠落)
…一人です。また、「おと法師」と申していました男の子は、成人して今は「とう四郎」と申しております。この者に、あなたのところへ行くように申しましたので、そのおつもりでおいでください。「けさ」の娘は十七歳になりました。それから、「ことり」という女は、子どもが一人もおりませんので、七歳になる女の子を育てさせています。その子も親といっしょにあなたのところへ参ることになっています。いろいろ申したいことがありますが、すべてを書きつくすことができませんので、ここで筆をとめます。あなかしこ、あなかしこ。
恵信尼消息 第五通 西本願寺蔵
-
○〔解説〕 恵信尼消息 第五通
五輪の塔 恵信尼公廟所 新潟県 中頸城郡板倉町 国府教区
源信和尚の墓
|
親鸞聖人の墓 「親鸞聖人伝絵」による (西本願寺蔵)
|
-
このお手紙は文中に、今年は八十三歳になった、としるしておられるので、弘長四年(一二六四)に書かれたことがわかります。なお、同年の二月二十八日に文永と年号を改めていますので、改元の日以降に出されたお手紙であれば、文永元年ということになります。
現代語訳には、このお手紙は「えちう」(越中=富山県)を経由して京都へ届けてもらうといたしました。しかし、「えちう」を人名とみて、この人が使者として手紙を京都に届けたという解釈もあります。
○ ○
恵信尼さまはお手紙のなかに、「今年は八十三歳になつたので、死ぬことでしょう」としるされ、このことについて「学問のある人の本に書いてある」といっておられます。
これに関して、ある研究者は「夫に先立たれた妻は三年目にあとを追って死ぬということが、そのころ世間でいわれていたのでは」という推測をしています。しかし、当時このようなことがいわれていたかどうかははっきりしません。
○ ○
生きているうちに自分のお墓を造ることを、寿塔を建てるといいます。恵信尼さまは、この寿塔を建てようと思われ、高さ七尺の五重の卒塔婆を塔師(石塔を造る人)に注文したので、出来上がればさっそく建てることにするとしるしておられます。
『親鸞聖人伝絵』に描かれている親鸞聖人のお墓も五重の卒都婆です。恵信尼さまは、聖人のお墓が建てられたことをお聞きになつて、ご自身のお墓も同じく五輪のお墓にしようとされたのかもしれません。
新潟県中頚城郡板倉町にある恵信尼さまのお墓は、地輪が方形(四角形)、水輪が円形、火輪が三角形、風輪が半円形、空輪が如意珠形の典型的な五輪塔です。
しかし、『親鷲聖人伝絵』に描かれている親鸞聖人のお墓は、地輪と水輪が四角形、火輪は八角形の長い塔身、風輪は四角の笠形、空輪は宝珠(円形)です。
この五輪塔は、親鸞聖人が七高僧のお一人として尊敬された源信和尚の墓形と同じです。この様式の五輪塔は源信和尚の師匠である比叡山横川の元三大師良源が考案したもので、その門弟の源信・尋禅・邏賀・覚超の各師みな同じ墓形で、横川様式ともいわれる他にあまりみられない独特の形をしています。
恵信尼さまは、親鸞聖人のお墓が横川様式であることをご存知なく、一般に普及している様式の五輪塔にされたのでしょう。
○ ○
また文中に恵信尼さまは、前年の弘長三年(一二六三)の大飢饉に幼い子どもたちをはじめ家族を飢え死にさせないようにと大変苦労されたことを述べておられます。この文の後半は欠失して、その内容は不明ですが、飢饉のときの様子をあれこれ書かれていたのでしょう。
最後に京都に派遣する使用人たちのことがしるされています。
-
○【本文】 恵信尼消息 第五通 原文
-
もし便りや候ふとて、ゑちうへこの文はつかはし候ふなり。さても一年、八十と申し候ひし年、大事のそらう(所労)をして候ひしにも、八十三の歳ぞ一定と、ものしりたる人の文どもにも、おなじ心に申し候ふとて、今年はさることと思ひきりて候へば、生きて候ふとき卒都婆をたててみ候はばやとて、五重に候ふ石の塔を、丈七さく(尺)にあつらへて候へば、塔師造ると申し候へば、いできて候はんにしたがひてたててみばやと思ひ候へども、去年の飢渇に、なにも、益方のと、これのと、なにとなく幼きものども、上下あまた候ふを、殺さじとし候ひしほどに、ものも着ずなりて候ふうへ、しろきものを一つも着ず候へば、(以下欠失)
一人候ふ。またおと法師と申し候ひし童をば、とう四郎と申し候ふぞ。それへまゐれと申し候ふ。さ御こころえあるべく候ふ。けさが娘は十七になり候ふなり。さて、ことりと申す女は、子も一人も候はぬときに、七つになり候ふ女童をやしなはせ候ふなり。それは親につきてそれへまゐるべく候ふなり。よろづ尽しがたくて、かたくて、とどめ候ひぬ。あなかしこ、あなかしこ。
|