思い出深き念仏者
(連載第3回 自照社出版 自照同人 第17号 2003/07)
千葉 乗隆   
     
○慶証寺に寄宿
 前号から宮地廓慧先生の思い出をしるしていますが、今回もひきつづき宮地先生のことを中心に述べたいと思います。

 私は龍谷大学に入学して、宮地先生のお宅で二か月ほどお世話になったのち、西本願寺の前の慶証寺に住まわせていただくことになりました。

 宮地先生に連れられて慶証寺に行く途中、先生は「慶証寺は江戸時代に玄智さんという立派な学者が住職をしておられたのですよ」といわれました。

 私は玄智師(1734〜94)のことは何も知りませんでしたが、真宗史を学ぶことになって、玄智師の著述のすばらしさがわかりました。その数多い著書の中でも、特に本願寺の歴史を解明した『大谷本願寺通紀』十五巻は、私の座右の書として、今もその恩恵にあずかっています。     この『大谷本願寺通紀』には、門主の動向や教団の実態が、余すところなく克明に述べられています。そのため、出版されますと直ちに本願寺当局者によって発売禁止にされました。
 玄智師は大いに憤慨しましたが、どうすることもできず、寺に閉じこもり、歴史の探究は中止し、教義の研鑽に専念しました。そして三年間かけて『教行信証光融録』四十巻の大著を書き上げたのでした。
○『聖鸞』の編集会議
 慶証寺に止宿して、しばらく経たある日、父が上洛してきました。当時、本願寺に勤務していた宮地先生のところに、あいさつに行きました。先生は「今夜はなにか予定はありますか」とたずねます。父が「別に用事はありません」と答えますと、「それでは夕方にお迎えにいきますので、ご一緒してください」といわれました。

 その夜、京都大学の近くに住んでおられた川畑愛義先生のお宅に行きました。愛義先生の弟愛浩先生も来られました。ご兄弟ともに京大医学部に勤めておられました。今夜のつどいは『聖鸞』の編集についての談だということでした。

 この『聖鸞』というのは、1936年(昭和11)いらい、かつての知四明寮の学生親鸞会のメンバーが発起して発行していた月刊誌です。それが五十号になるので、今後の編集方針を策定するという会議でした。     川畑・宮地両先生は激しい議論をたたかわせ、いっぽう弟の愛浩先生は温厚な方で、時折り口を さしはさんでおられました。仏教用語・英語・ドイツ語のとびかう大激論は、私には理解できないものでした。ただ議論の要点は、『聖鸞』の内容がマンネリ化してきているので、それをどう是正するかということだったようです。     私は議論を聞きながら、先生方の仏法に傾倒する熱い思いに圧倒されるとともに、仏法を伝えることの困難さをも感じたのでした。

 宿に帰って父が「みなさん大変熱心だね。むずかしい議論をするねえ」とぽつりと言ったのが、これまた印象的でした。
○浄住寺に移る
 慶証寺の生活が半年ほど経た頃、宮地先生から洛西松尾の浄住寺の榊原徳草先生のところに移らないかとの話がありました。
 榊原先生も父の法友で、禅僧でしたが、厚信の念仏者でした。そこでやがて慶証寺を辞し、浄住寺に移りました。

 私は大学に入学当初は、真面目に講義を聴講していました。やがて学生生活になじみますと、 興味のない講義を欠席するようになりました。そのことについては、つぎのような出来事が背景にありました。

 前号に書きましたように、中学生時代に『歎異抄』によろこびを見出すことができなかった私は、やがて良寛・一茶・吉田絃二郎の作品に心をうばわれました。それは木村無相さんが、これらの人たちに関する書物を多くたずさえて来寺していたためでした。私は特に良寛の生きざまに深く傾倒したのでした。     龍谷大学に入学してしばらく経た時、ある先生が「諸君の尊敬する人の名を書きなさい」といわれます。私はなんのためらいもなく「良寛」と書きました。回答用紙をみて、先生の講評がはじまりました。「二名を除いて全員が親鸞と書いている。二名の中の一名は良寛、一名は父親とある。父親のことはまずよいとして、禅僧の良寛とはいったい何事だ。ここは親鸞聖人の教えを学ぶ大学である。……」と強く叱責されました。

 私は「なんと狭量な心の先生なのか」とその先生に対する尊敬の念がふっとびました。そして、戦時下の全体主義の風潮が仏教界にも波及したのかと、暗い思いをいだいたのでした。

 しかし、いまあのときのことをかえりみますとき、あ生は熱心な親鸞聖人の崇拝者だったので、あのような発言をされたのではと思うのです。  このようなことがあって、それいらい面白くない講義は欠席をするようになりました。

 ある日、榊原先生が、「千葉君、大学になぜ行かないのか」とたずねます。私はその理由を説明する気がしなかったので、「きょうは先生が休講です」と答えました。すると先生は「講義がなくても大学に行きなさい。大学には大学独自の香りがあり、そこにいるだけで香りが身に染みます」 といわれ、ついで親鸞聖人のご和讃(浄土和讃)の、
染香人のその身には
  香気あるがごとくなり
  これをすなはちなづけてぞ
  香光荘厳とまうすなる
というお言葉を引用されて、こんこんと諭してくださいました。それいらい、私はつとめて大学に行くようにしました。
○榊原先生の生活
 榊原先生は瓢々とした日々を過ごしておられ、その生活について、つぎのような話をしてくださいました。
 「浄土真宗のお寺は、寺の中で子どもの声が聞こえ、庭さきには下着やオムツが干してあり、風にひらひらとゆれています。それをみると和やかな気持ちになり、親近感を覚えます。人びとが気楽に寺に遊びにきます。

 いっぽう、禅宗の寺の庭には一つ ないように掃き清め られています。いかにも清潔な感じがしますが、気安く近づくことができません。

 ここは禅寺ですが、庭には下着を干し、草ぼうぼうと茂っています。草にもいのちがあります。大切にしてあげねばならないので、できるかぎり草はとらないでそのままにしています。

 魚や野菜にもいのちがあります。しかし、私たちは彼らのいのちを犠牲にして生きています。     釈尊がハシノク王と マッリカ王妃に、自分を最もいとしいと思うなら、人もまた自分をいちばん大切と思っています。 自分のいのちをささえるために、他の大切なものを犠牲にしていることを知るべきです。 おたがいにいのちを大切にすべきです、といっておられます。

 私たちは、この釈尊のお言葉を大切にして行動しなければならないと思います。しかし、よくよく反省しますと、罪悪深重の私です。罪悪深重、煩悩熾盛のこの私をお目当ての阿弥陀さまのお慈悲は、まことにありがたいことです」
といわれて、念仏されたのでした。
○再び宮地先生のもとに
 浄住寺に止宿させていただいて一年ほど経たとき、1940年(昭和15)に、宮地先生から「今度、京都大学の近くの百万遍に移ることになった。部屋数が多いので、来ませんか」というお誘いがあり、ここに移り住みました。
 このころ宮地先生はあいかわらず各地で講演され、例の激しい口調で仏法を説きすすめていました。時は戦時下、厳しい思想統制のもと、先生は反戦思想家であると見なされ、特高警察の取り調べをうけました。

 先生は私に「警察は私のいうことは一向に聞かないで、誤った理解をして、それを認めるよう強要する」といわれ、大変困惑しておられました。その後二、三度警察に出頭し、「今後発言には十分注意するように」とクギを刺されて、ようやく放免されたのでした。     戦時下において、宗教各宗は天皇崇拝と 国家神道への従属と戦争への協力を強要されました。

 1940年、西本願寺は、親鸞聖人が著された浄土真宗の根本聖典『数行信証』化身土巻の「主上臣下、法に背き義に違し忿りを成し怨みを結ぶ……」という、承元の法難で法然上人門下の四人が死罪、法然・親鸞両聖人等七人が流罪に処せられたのは、 後鳥羽上皇等が法律に則らず個人的な怒りによる処罰であったとする文言のところを削除する処置をとったのでした。

 真宗教団にとって、戦争と平和のはぎまで苦悩する受難の時代でした。
○千葉乗隆 ちばじょうりゆう
 1921年、徳島県に生まれる。龍谷大学文学部国史科卒業。元龍谷大学学長。現在、本願寺史料研究所所員、国際仏教文化協会理事長、徳島県安楽寺住職。主な著書に「本願寺ものがたり」「蓮如上人ものがたり」「親鸞聖人ものがたり」「真宗重宝聚英」(共著)「講座蓮如」(共著)などがある。
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