第1箱 第1号

一 三好千熊丸諸役免許状
従興正寺殿被仰子細候、然上者早々還往候て、如前々可
有堪忍候、諸公事等之儀指置申候、若違乱申方候ハヽ、
則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言
                 三好
永正十七
 十二月十八日            千熊丸
郡里
  安楽寺

第1箱 第1号 三好千熊丸諸役免許状

第1箱 第2号

二 篠原長政添状
就興正寺殿ヨリ被仰子細、従千熊殿以折紙被仰候、早々
還往候て、如先々御堪忍可然候、諸課役等之事閣被申候、
万一無謂子細申方候ハヽ、則承可申届候、於今度山科ニ
御懇之儀共、不及是非候、堅申合候間、急度御帰寺肝要
候、恐々謹言
永正十七          篠原大和守
 十二月十八日
                 長政(花押)
郡里
  安楽寺

第1箱 第2号 篠原長政添状

安楽寺沿革 抜粋 以下にでてくる召帰しの状がこちらになります

 16世紀に入ると、永正12年(1515)に火災が起こり、伽藍・法宝物等ことごとく焼失しました。寺はしばらく瀬詰村(徳島県吉野川市山川町瀬詰安楽寺)に移り、その後、讃岐財田(香川県三豊市財田町)の宝光寺に入りました。

 5年後の永正17年(1520)に、三好長慶の寺領安堵と召帰しの状によって、郡里の地に帰り寺を復興し、ここを拠点に仏法の伝道につとめました。その結果、四国東部に教線をのばし、17世紀に安楽寺の支配に属する寺は、阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達しました。