恵信尼消息
(連載最終第12回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第193号 2006/03 春)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺

◎恵信尼消息

連載最終第12回 編集部あとがき 仏教婦人総連盟あとがき 読者の声
○終わりにあたって 恵信尼消息 連載最終第12回

   親鸞聖人のご生涯は波瀾に富んだものでした が、ご自身のことについては、あまり語っては おられません。ただ 『顕浄土真実教行証文類』 「化身土巻」」六の「後序」(『註釈版聖典)』(第二版) 四七一〜四七三頁)に、承元の法難と法然上人門 下における出来事がしるされているだけです。     「後序」には、承元の法難について、つぎのよ うな趣旨を述べておられます。「ひそかに考えて みますと、聖道門の教えではもはや悟りを開く ことができなくなったので、念仏をとなえ阿弥 陀仏によって救われる浄土真宗が盛んになりま した。それにもかかわらず、聖道門の僧たちは、 現実を認識することができず、なにが真実の教 えであるかわかっていません。また京都の知識 階級や指導者たちも、なにがでありなにが であるかとの区別をすることができません。こ うした状態のなかで、興福寺の僧たちは、承元 元年(一二〇七)二月に、後鳥羽上皇土御門天 皇に、専修念仏の禁止を訴えました。上皇・天 皇をはじめ臣下の者たちは、道理にそむき正義 にたがい、個人的ないかりでもって人を処罰し ました。そのため真宗興隆の太祖源空法師およ びその弟子数人は罪がないのに死罪や流罪に処 せられました。そのとき僧の身分を俗人に還し て流罪にされました。自分もまたそのひとりで す。だから私はもはや僧侶でもなく、また俗人 でもありません。そこで禿という字を姓としま した。流罪になつて五年の歳月を経た建暦元年 (一二一一)十一月十七日に罪を赦されました。源 空聖人は京都に帰られて、東山大谷に住んでお られましたが、建暦二年(一二一二)一月二十五 日にご入滅になられました」     ひきつづき「後序」には「しかるに愚禿釈の 鸞建仁辛酉雑行を棄てて本願に帰す」 と二十九歳のとき源空(法然)聖人のお導きで、 阿弥陀仏の本願を信じ念仏する身となられたこ とをしるされています。そして、元久二年(一二 〇六)三十三歳のときには、源空聖人から 『選択 本願念仏集』の書写聖人真影の図画を許さ れたときの状況を詳しくしるしておられます。そ して、このころ夢告によって当時の綽空という 名を改められたことをも述べておられます。こ のときどのような御名に改められたのかは書い ておられません。存覚上人著わされた六要 鈔』には、善信と改名されたとしるされていま す。

 聖人がご自身の経歴について書かれたのは に述べた以外には見当たりません。

    〇  〇     親鸞聖人が語られなかったご経歴、その不明 の部分を補うのが、恵信尼さまのお手紙です。

 「恵信尼消息」第一通から第四通の内容は、覚 信尼さまから聖人のご往生のお知らせをうけた 恵信尼さまが、聖人とともに過ごされたとき、見 聞された出来事をしるしておられます。

 その内容は、聖人は比叡山で堂僧として修 行にはげんでおられたこと、比叡山の修行に絶 望して山を下り六角堂に百日の参寵を志し、聖 徳太子の示現を得て、法然上人を訪ね、 百日の間聴聞に通われたことなど、聖人が浄 土真宗に帰依されたいきさつを明らかにされて います。

 聖人が越後に流罪中のご動向については、建 暦元年(一二一一)三月三日に息男の信蓮房が誕 生したことをしるしておられるだけで、この年の 十一月十七日に聖人の流罪が赦されたことにつ いては、ふれておられません。

 信蓮房が四歳の年、建保二年(一二一四)聖人 は上野(群馬県)佐貫で衆生利益のために三部経千部読誦をはじめられましたが、自ら信ずるお 念仏の教えを伝えることが大切であると思い返さ れて読経を中断されたこと、その十七年後に、聖 人が風邪で発熱されたとき、『大無量寿経』を口 ずさむご自分の姿に気づかれて、自力の行への執 心の捨て難いことを恵信尼さまに話されたことを しるしておられます。

 また常陸(茨城県)下妻坂井郷に住んでおら れたとき、恵信尼さまは法然上人が勢至菩薩化身、親鸞聖人は観音菩薩の化身であるという 夢をごらんになりました。恵信尼さまは親鸞聖 人に、法然上人が勢至菩薩の化身であるという 夢のことをお話しされましたが、親鸞聖人が観 音菩薩の化身であるという夢のことはお伝えし ませんでした。しかし、それいらい恵信尼さま は、聖人は観音さまの化身であると思ってお仕 えしたということを聖人のご往生後にはじめて 覚信尼させに打ち明けておられます。

 そして、第二通日のお手紙の中に、覚信尼さ まのもとに所蔵している親鸞聖人の肖像画を一 幅所望しておられます。聖人ご往生のことを 聞き、聖人のご存生中に生活をともにされたさ まざまの出来事をお偲びするために、との思いに かられて肖像画を所望されたのでしょう。

    〇  〇     恵信尼さまのお手紙の第五通と第六通には、 生前にご自身のための五重塔を塔師に依頼して 造っていることと、身辺の近況を知らせておられ ます。

 第七通と第八通には、恵信尼さまは八十五歳 の夏から体調を崩され、それいらい回復しないと いうご自身のことをしるされるとともに、覚信尼 さまの息男の覚恵(光寿御前)と、息女の光玉(宰 相殿)の近況を問い合わせておられます。

 特に第八通の中には、「自分はいますぐにも極 楽へまいらせていただける身ですが、あなたさま も、かならずお念仏を申されて、極楽でお会いい たしましょう」としるされています。

 さらに覚信尼さまの侍女「わかさ殿」にも、 「きっとお念仏して極楽でお会いしましょう」と 書いておられます。

 恵信尼さまが覚信尼さまに宛てたお手紙はこ の第八通が最後であったようで、こののちまもな くご往生されたようです。

    〇  〇      恵信尼さまのお手紙とともに恵信尼さまが 『仏説無量寿経』(大経)を仮名で書写された断簡 が三枚伝わっています。

 現存する写経の前後の部分を抜粋すると、左 記の通りです。

 「めなういよう(瑠璃為葉)四こんいけ(紫  金為華)曰やくこんいしつ(白銀為実)わく  うほうしゆ(或有宝樹)(空白)い本(水精  為本)三五いきやう(珊瑚為茎)‥‥(中  略)‥‥しよう   しきしん (清浄色  身)しようめうおん上(諸妙音声)神つくと  く(神通功徳)しよ くうて(所処宮殿)  ゑふくおんしき(衣服飲食)(以下欠)」

 この写経の内容は、釈尊が阿難に無量寿仏 (阿弥陀仏)の浄土の有様を説かれた部分で、そ の前後の経文はたぶん欠失したものと思われます。

 この写経は、恵信尼さまが経本を見ながら書 写されたのではなく、暗誦しておられたお経の をしるされたようで、経文に欠落している箇所や 前後しているところもあります。
写経恵信尼文書
恵信尼さま「大経」の写経 恵信尼文書 本願寺蔵

 親鸞聖人は、「恵信尼消息」第四通にしるさ れているように、『三部経』の千部読誦という ような、読誦行として経典を読むことは否定し ておられます。しかし、仏恩報謝のための読経は されていたと思われます。恵信尼さまは仏前で 『大経』を読誦される聖人のうしろに座って、と もに経文を唱和しておられるうちに、おのずから 暗誦されるようになられたと拝察されます。

 それではどのような理由で仮名写経をされた のかということですが、恵信尼さまは親鸞聖人 のご往生の報せをうけて、追慕の思いにかられて ということが先ず考えられます。

 つぎに「恵信尼消息」第八通に、覚信尼さま に「わたくしは極楽へいますぐにもまいらせてい ただけます。あなたもお念仏を申されて、極楽で お会いしましょう」としるされ、さらに覚信尼さ まの侍女「わかさ殿」にも同じように、お念仏に 心がけて極楽でお会いしましょうと書いておられ ます。

 その極楽のありさまをしるした『大経』の部 分を抜書きして覚信尼さまのもとに送られたとい うことも想像されます。

 しかし、現存する写経は極楽の宝樹荘厳説 かれた部分の中ほどから眷族荘厳の初めまでで すので、『大経』を全部書写されたのか、あるい は極楽の有様を説いた部分だけの抜書きであった のか、判明しません。いずれにせよ前後のが何 かの理由で欠失したものと思われます。

    ○  ○     親鸞聖人がご家族とともに東国から京都にお 帰りになられたのは、嘉禎二年(一二三六)聖人 六十四歳、恵信尼さま五十四歳の頃でした。

 その後恵信尼さまは、父君三善為教から譲ら れた遺産の土地などを管理するために、越後に 赴かれました。それは建長五年(一二五三)親鸞 聖人八十一歳の頃と推定されます。

 聖人と越後の恵信尼さまとの間でお手紙の交 換がなされたことと思われますが、残ってはいま せん。現在、『浄土真宗聖典』「親鸞聖人御消息」 (第二版 七三五〜八〇八頁)に収録する聖人のお手 紙は四十三通ですが、そのほとんどは東国の門弟 に宛てられたものです。ご家族宛のものは、息男慈信房善鸞さまに三通、息女覚信尼さまに二 通が収録されています。

 善鸞さまに宛てたお手紙は、建長八年(一二五 六)に東国で異義を説かれた善鸞さまを義絶され たことに関する内容です。

 覚信尼さま宛の十一月十一日付のお手紙(聖典 七九九頁)は、聖人が常陸の念仏者に、自分が死 んだあと覚信尼さまたちの扶助を依頼したことを、 覚信尼さまに知らせた内容です。

 常陸の念仏者への依頼状(聖典七九九〜八〇〇 頁)は、このお手紙を書いた翌日の十一月十二日 にしるしておられます。その内容は、聖人の死後、 覚信尼さまと息男の即生房さまの援助を常陸の 念仏者に依頼されたもので、お手紙の内容や筆 跡からして、聖人が弘長二年(一二六二)十一月 二十八日にご往生される直前にしたためられた 遺言状と思われます。
聖人遺言状
親鸞聖人の遺言状 本願寺蔵

 覚信尼さまに宛てたもう一通の手紙(聖典七八 〇頁)は、かつて聖人ご一家に仕えていたと思わ れる「いや」という女性の近況について 「彼 女は勤め先がなくて、貧しい暮らしをしており、 みじめでかわいそうなことですが、どうすること もできません」としるしておられます。     このお手紙には年号の記載がなく三月二十八 日という日付だけです。しかし、いや女について は、聖人が寛元元年(一二四三)十二月二十一日 付で書かれた「いや女譲状」に、いや女はこの ころ照阿弥陀仏のもとを去って東女房に仕えて います。しかしその後、東女房のもとを去って勤 務先がなくなっていますので、このお手紙は寛元 元年以後で、覚信尼さまが夫君の日野広綱と死 別する前年の宝治元年(一二四七)頃にしるされ たお手紙であると推測されます。

 このころ恵信尼さまは京都におられ、聖人と ともに、いや女のことを気遣い心を痛められたこ とと思われます。

 この宝治元年には親鸞聖人の得度に立ち会っ た叔父日野範綱の子信綱法名尊蓮)に『教行信 証』の書写を許可しておられます。これは二十 余年にわたる『教行信証』の訂正作業を終えら れたことを示すものでしょう。

 その翌年、宝治二年(一二四八)に『浄土和讃』 と『高僧和讃』を著わされました。

 その『浄土和讃』の中に「子の母をおもふが ごとくにて、衆生仏憶すれば現前当来とほ からず、如来を拝見うたがはず」(聖典五七七頁) とありますが、建長元年(一二四九)夫の日野広 綱と死別した覚信尼さまは、母のもとに帰ってこ られたのでした。

 その四年後に恵信尼さまは越後におもむかれ ました。別居はされましたが、「衆生仏憶す れば、現前当来とほからず、如来を拝見うたが はず」の思いはお二方に共通するものでありま した。     この『浄土和讃』のお言葉の趣旨は、聖人が 七十六歳の時に『和讃』を作られるときに、ふ っと思いつかれたのではありません。聖人が法然 上人の浄土真宗に帰依されていらい変らない強 い信念でした。その信念を『和讃』に表現され たのでした。

 恵信尼さまは、聖人とご結婚されて、その強 い信念に共感されて、お念仏する身になられた ものと拝察されます。

 それゆえに、覚信尼さまが聖人のご逝去を伝 えるお手紙へのご返事(恵信尼消息第一通、聖典八 一三頁)に、「殿のご臨終がどのようであられま しても、極楽にご往生されたことは間違いあり ません」としるしておられます。

 そして第八通(聖典八二四頁)には「私は、 死ねばいますぐにも極楽にまいらせていただけ ます。あなたさまも、必ずお念仏を申されて極 楽でお会いしましょう」とおしるしになられて います。     恵信尼さまは、親鸞聖人のみ教えのよき理解 者であり、覚信尼さまたちお子さま方のよき母 君であられたのでした。
  
○「めぐみ」編集部 仏教婦人総連盟  No.193 2006年 春号

 二〇〇三年一八二号(夏号)にスタ ートし、十二回にわたり連載してまい りました千葉乗隆先生の「恵信尼消息」 も今回で最終回です。  『恵信尼消息』をわかりやすく、や さしい言葉でご教示くださいました先 生には厚く御礼申しあげます。  また、ご愛読いただきました多くの 読者の方々にも感謝申しあげます。
  
○編集あとがき  No.193 2006年 春号 「めぐみ」 仏教婦人総連盟

 春には、こぶしの花が咲きはじめ ます。★『めぐみ』に聖典講座「恵 信尼消息」を三年間にわたり執筆し ていただきました。★八通のお手紙 の内容の詳しい解説を読み、恵信尼 さまについての学びを深めることが できました。★心のこもったお手紙 から、お念仏の喜びと命の尊さが、 時代を超えて今にひしひしと伝わっ てきます。★情報化社会といわれ、 経済性・効率性ばかりに目がむけら れがちな今日こそ、真実を求めて生 きぬかれた親鸞聖人のみあとをした い、よりいっそう聞法に励みたいと 思います。      (編集委員・真島康子)
  
○【読者の声】 193号(2006 春)によせて  (194号掲載)

福井・高嶋満子 様:
 「恵信尼消息」をうれしく拝読させていただきました。わかりやすく、優しい言葉で多くを学ぶことができました。

福井・日種洋子 様:
 恵信尼さまが、親鸞聖人を観音さまの化身として尊敬されたこと、しかも親鸞聖人が亡くなられるまで、その思いを誰にも語られなかったことに感動しました。