恵信尼消息
(連載第08回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第189号 2005/03 春)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
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◎恵信尼消息 第六通
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現代語訳
解説
本文(原文)
読者の声
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○【現代語訳】 恵信尼消息 第六通
- 京都に手紙をとどけてくださるということで、うれしくて、おたよりをさしあげます。
これまでもたびたび、おたよりを出しましたが、お手元に届きましたでしょうか。
私は今年八十三歳になりました。去年と今年は、死に年といわれています。それゆえ、
いろいろの出来事をいつも聞かせていただきたいと願っていますが、手紙が確かに届くかどうか不安です。
さて、生きているうちにと思いまして、高さ七尺の石の五重塔を注文していましたのが、
ちかく出来上がるといってまいりました。
いまは住所なども移転しましたうえ、飢饉のときに、使用人もみな居なくなりました。
全く頼りにするものはいませんが、生きている間に、五重塔を建ててみたいと思いました。
それがこのほど出来上がりまして、こちらに運んでくるようになったということを聞きました。
どうにかして生きている間に、建ててみたいと思っていますが、どうなりますことやら。そのうちに、
私が死にましたならば、子どもたちに建ててもらいたいと思っています。
それにつけても、私が生きている間は、どのような事でもいつもお聞かせいただきたいと思っています。
しかし、あなた(覚信尼さま)と私ははるか遠く隔てたところに住んでいますので、きめ細やかな親子の
情を心ゆくまで交わすことができないように思います。
殊にあなたは末っ子でございますので、私にはいとおしくてなりませんが、もうお目にかかることは
ございませんでしょう。たえずあなたのことをお聞きすることができないということは、ほんとうに
つらいことでございます。
「文永元年甲子」(一二六四年)
五月十三日
(追伸)
ともかく、あなた(覚信尼さま)のところに行くことになっている使用人たちの様子について、
お知らせします。こちらにいます「けさ」と申します者の娘(なでし)は死にました。今は「けさ」
の娘(いぬわう)は一人だけです。「けさ」ももともと病気がちの身です。それから、「おと法師」
と申していましたのは、成人して「とう四郎」と名乗りました。この者と女の子で「ふたば」と
申しますことし十六歳になります者を、あなたさまのところに行くように申しました。
詳細なことなど、すべてを手紙に書くことができませんので、ここで筆をおきます。 また、
もとこちらにいました「ことり」には、七歳の子どもを育てさせているとのことも承りました。
五月十三日(花押)
(三伸)
この手紙は確実にあなたのところに届くということでした。そこで、詳しく詳しく、
お知らせしたいと思いましたが、使いの者が、今すぐ出発するといって、急ぎますので、
詳しく書くことができません。また、この「ゑもん入道殿」が、お言葉をかけてくださいましたことを、
うれしく思っています。この使いは信頼できますので、どのようなことでも細かに申してください。
あなかしこ。
恵信尼消息 第六通 西本願寺蔵
恵信尼消息 第六通 西本願寺蔵
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○〔解説〕 恵信尼消息 第六通
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このお手紙は、前回ご説明しました第五通と同年、恵信尼さま八十三歳のとき、覚信尼さまに宛てて
お出しになっておられます。
第五通には発信の月日はしるされていません。しかし、第六通には発信日を五月十三日とされ、
その日付けの右横に覚信尼さまが「文永元年甲子」と書き込みをされています。
第五通と第六通の内容を比較しますと、第五通には五重塔を建てようと思って塔師に発注したこと
が書かれており、第六通にはその五重塔が出来上がったといっておられますので、第五通は第六通が
書かかれた文永元年五月以前ということになります。
○ ○
追伸に、恵信尼さまが覚信尼さまのもとへ派遣する使用人のことが述べられています。
使用人については、恵信尼さまが覚信尼さまに宛てた建長八年(一二五六)七月九日と同年九月十五日
付の二通の文書があります。
右の二通の文書の内容はほぼ同じで、覚信尼さまのもとに派遣する使用人の名前と年齢がしるされて
います。その人名には、この第六通の追伸にみえる人と共通の名前があります。
その建長八年の二通の文書にしるされた人
名はつぎの通りです。
けさ
けさの娘なでし
けさの娘いぬわう
けさの継母の連子まさ
まさの娘いぬまさ
いぬまさの弟
ことり
あんとうじ
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三十六歳(女性)
十六歳(女性)
九歳(女性)
年齢不明(女性)
十二歳(女性)
七歳(男性)
三十四歳(女性)
年齢不明(男性)
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以上八人です(ただし七月の文書に「いぬまさの弟」はしるされていません)。
このたびのお手紙の中に、右の八人の使用人の動静について、「けさ」という女性は病身であること、
「けさ」の娘「なでし」は病気(文永四年九月七日のお手紙によると熱病)で死んだことを知らせています。
また建長八年の名簿に「いぬまさの弟」とある者は、「乙法師」という名であったと推定され、
この人は成人して「とう四郎」と名乗つており、この「とう四郎」と「ふたば」という十六歳に
なる娘とを、覚信尼さまのもとに行くよう申しつけたことを述べておられます。
○ ○
三伸には、この手紙は確実に届けてくれるとのことです。しかし、すぐ使者が出発するので
急いで手紙をしたためなければならないので、詳しいことを書く余裕がない、としるしておられます。
そして手紙は「ゑもん入道殿」の配慮によって届けることができる旨を述べておられます。この
「ゑもん入道」は、彼自身が京都に出かける人なのか、あるいはこの人が使者を派遣するのか
わかりませんが、確かな使者なので、どのようなことでも、詳しくおっしゃってくださいませ
としるしておられます。
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○【本文】 恵信尼消息 第六通 原文
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便りをよろこびて申し候ふ。たびたび便には申し候へども、まゐりてや候ふらん。
今年は八十三になり候ふが、去年・今年は死年と申し候へば、よろづつねに申しうけたまはりたく
候へども、たしかなる便りも候はず。
さて生きて候ふときと思い候ひて、五重に候ふ塔の、七尺に候ふ石の塔をあつらへて候へば、
このほどは仕いだすべきよし申し候へば、いまはところどもはなれ候ひて、下人どもみな逃げうせ
候ひぬ。よろづたよりなく候へばども、生きて候ふとき、たててもみばやと思ひ候ひて、このほど
仕いだして候ふなれば、これは持つほどになりて候ふときき候へば、いかにしても生きて候ふとき、
たててみばやと思ひ候へども、いかようにか候はんずらん。そのうちにも、いかにもなり候はば、
こどももたて候へかしと思ひて候ふ。
なにごとも、生きて候ひしときは、つねに申しうけたまはりたくこそおぼえ候へども、
はるばると雲のよそなるようにて候ふこと、まめやかに親子の契りもなきやうにてこそおぼえ候へ。
ことには末子にておはしまし候へば、いとほしきことに思ひまゐらせて候ひしかども、
みまゐらするまでこそ候はざらめ。つねに申しうけたまはることだにも候はぬこと、
よに心ぐるしくおぼえ候ふ。
「文永元年甲子」
五月十三日
ぜんあく、それへの殿人どもは、もと候ひしけさと申すも、娘うせ候ひぬ。いまそれの娘一人候ふ。
母めもそらうものにて候ふ。さて、おと法師と申し候ひしは、男になりて、とう四郎と申すと、
また女の童のふたばと申す女の童、今年は十六になり候ふ女の童は、それへまゐらせよと申し
候ふなり。なにごとも御文に尽しがたく候ひてとどめ候ひぬ。またもとよりのことり、
七つ子やしなはせて候ふも候ふ。
五月十三日(花押)
これはたしかなる便りにて候ふ。ときに、こまかにこまかに申したく候へども、ただいまとて、
この便りいそぎ候へば、こまかならず候ふ。またこのゑもん入道殿の御ことばかけられるまゐらせて
候ふとて、よろこび申し候ふなり。この便りはたしかに候へば、なにごともこまかに仰せられ候ふべし。
あなかしこ。 (「註釈版聖典」 819〜821頁)
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○【読者の声】 189号(2005 春)によせて (190号掲載)
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石川・大谷内美代子様:
本を開いている時だけで、閉じれば何もわからなくなりますが、やっぱりお念仏の世界だと感じています。
長崎・牟田とみ子様:
当時の生活がわかりました。
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