(仏教研修会 第316回) 1999/12/26 浄土真宗の歴史に学ぶ
略年表
1580 天正 8 3月17日信長と講和。4月9日顕如、石山を退去。教如は信長との交戦をつづける。顕如、教如を義絶。
1582 天正10 6月2日信長殺さる。6月27日顕如、勅命により教 如を許す。
1587 天正15 12月6日顕如、准如に宛て譲状を書く。
1592 天正20 11月24日顕如没(50歳) 11月25日教如、秀吉の指示により本願寺を継ぐ。
1593 文禄 2 閏9月12日秀吉、教如・如春尼・准如等を大坂に呼 び、寺務継承についての案を提示。教如方これに従わず。
同月16日秀吉、教如の引退、准如の寺務継承を命ず。
1598 慶長 3 8月18日秀吉没。12月10日家康、教如を訪問。
1600 慶長 5 7月2日教如、家康を訪ね関東におもむく。9月関ヶ原合戦。9月20日教如、大津で家康に会う。11月17日准如、家康に会う。
1601 慶長 6 8月16日家康、教如を訪ねる。このとき家康、准如の 進物を踏みつぶさせる。
1602 慶長 7 2月家康、教如に京都東六条に四町四方の寺地を寄進。
1603 慶長 8 1月教如、上野国厩橋より宗祖影像をむかえる。6月教如、東6条の仮御堂へ移る。11月教如、阿弥陀堂 を建てる
1604 慶長 9 教如、御影堂を建てる。
1、顕如上人と教如上人の和解の叡慮を伝える女房奉書
仰ぐ 天正10・6・23
本願寺僧正(顕如)と僧都(教如)のあいだの事、いかようにも別儀なきように、 両人として、よくよくあい心得て申下され候べく候よし、心得候とて候。かしく。
庭田どのへ
くわんしゅ(勧修)寺どのへ
(右の女房奉書は、顕如上人の二男興正寺佐超が、和解を図り、 庭田重保・勧修寺晴豊両勅使を通じ、正親町天皇に願い出て、奉書を下された。)
2、顕如上人が准如上人に宛てた譲状
譲渡状
大谷本願寺御影堂御留守職のこと、阿茶(准如)たるべきなり。 先年これを書くといえども、なお後代のためにこれを書きおきそうろう。 この旨、違背のやからこれあるにおいては、堅く成敗を加うべきものなり。 よって譲状くだんのごとし。
天正15丁亥歴極月6月 光佐(花押)
阿茶御かたへ
3、秀吉が教如上人に提示した11か条。文禄2年閏9月
大坂に居すわられ候事。
信長様御一類には大敵にて候事
太閤様の御代にて、雑賀より貝塚へ召し寄せられ、 貝塚より天満へ召し出され、天満より七条へ遣しあげられ候事、御恩と思し召され候事。
当門跡(教如)不行儀のこと、先門跡(顕如)時より連れんと申上候事。
代ゆづり状これある事、先代(顕如)よりゆづり状もこれある由の事。
先門跡(顕如)せつかんの者めし出され候事。
めし出され候人よりも、罷りいで候者ども、不届きに思し候事。
当門主(教如)妻女の事。
そこ心より、とどかざる心中を引き直し、先門跡のごとく殊勝にたしなみ申すべき事
右のごとくたしなみ候はば、十年家をもち、十年めに理門(准如) へあい渡さるべき事、是はかた手うちの仰付られ様にて候得共、新門跡(准如) このうち御目をかけられ候間、かくのごとく由に候。
心のたしなみもなるまじきと存ぜられ候はば、 三千国無役に下さるべく候あいだ、御茶の湯ともだちなされて候て、 右めしいだし候いたづらもの共めしつれ。御奉公候へとの儀に候。
4、准如上人に宛てた秀吉の証状
本願寺御影堂御留守職の事、親鸞聖人いらい代々の証文、 殊に先師光佐(顕如)譲状明鏡の次第、すなわち殿下(関白秀次) 叡慮(後陽成天皇)を経、三男なりといえども、寺法の旨にまかせて 光昭(准如)に仰せつけらるるの儀もつともに候。しかれば勤行等 いよいよ懈怠なくあいはげむべきこと専一に候なり。
文禄2年10月16日 (秀吉花押)