(仏教研修会 第321回) 2000/6/18 浄土真宗の歴史に学ぶ

「親鸞聖人伝絵」の作者覚如上人の生涯 3

 
本願寺聖人親鸞伝絵  上

ほんがんじしょうにんしんらんでんね じょう
 
 


それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊 、21世の苗裔、大織冠
それしょうにん(しんらん)のぞくしょうはふじわらうじ、あまつこやねのみこと、にじゅういっせのびょうえい、たいしょっかん

 
鎌子 内大臣の玄孫、近衛大将右大臣 贈左大臣 従一位内麿公  後長岡大臣と号
かまこのないだいじんのげんそん、このえたいしょううだいじん ぞうさだいじん じゅういちいうちまろこう ごながおかのだいじんとごう

 
し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣 房前公 孫、大納言式部郷真楯息なり
し、あるいはかんいんのだいじんとごうす。ぞうしょういちいだじょうだいじん ふさざきこうのまご、だいなごんしきぶきょうまたてのそくなり

 
六代の後胤、弼宰相有国 五代の孫 、 皇太后宮大進 有範の子なり。しかあ
ろくだいのこういん、ひつのさいしょうありくにのきょう ごだいのまご、こうたいごうぐうのだいしんありのりのこなり。しかあ

 
れば朝廷に仕えて霜雪をも戴き、 射山にわしりて 栄華をもひらくべかりし人な
ればちょうていにつかへてそうせつをもいただき、 やさんにわしりて  えいがをもひらくべかりしひとな

 
れども、興法の因うちにきざし、 利生 の縁ほかに催ししによりて、 九歳 の春の
れども、こうぼうのいんうちにきざし、りしょうのえんほかにもよおししによりて、 くさいのはるの

 
ころ、阿伯従三位範綱教 ときに従四位上前若狭守 後白河上皇の近臣なり、上
ころ、あはくじゅさんみのりつなのきょう ときにじゅしいじょう さきのわかさのかみ ごしらかわのじょうこうのきんしんなり、しょう

 
人(親鸞)の養父 前大僧正 慈円慈鎮和尚これなり、法性寺殿 御息  月輪殿 長兄
にんのようふ(しんらん) さきのだいそうじょう じえんじちんおしょうこれなり、 ほっしょうじどのごそく、 つきのわどののちょうけい

 
の貴坊へあひ具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号
のきぼうへあひぐしたてまつりて、 びんぱつをていじょしたまひき。 はんねんしょうなごんのきみとごう

 
す。それよりこのかた、しばしば 南岳・天台 の玄風を訪ひて、ひろく三観仏乗の理
す。それよりこのかた、しばしばなんがく・てんだいのげんぷうをとぶらひて、ひろくさんがんぶつじょうのり

 
を達し、とこしなへに楞厳横川 の余流を湛へて、ふかく四教円融の義 に
をたっし、とこしなへにりょうごんよこかわのよりゅうをたたへて、 ふかくしきょうえんにゅうのぎに

 
あきらかなり。

あきらかなり。
 


第二段

 
建仁第一の暦 春のころ 上人(親鸞)29歳 隠遁の志にひかれて、源空
けんにんだいいちのれきはるのころ  しょうにん(しんらん)にじゅうくさい いんとんのこころざしにひかれて げんくう

 
上人の吉水の禅坊にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたな
しょうにんのよしみずのぜんぼうにたづねまゐりたまひき。    これすなはち よくだり、ひとつたな

 
くして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真
くして、なんぎょうのしょうろまよひやすきによりて、    いぎょうのだいどうにおもむかんとなり。  しん

 
宗紹隆の大祖聖人(源空) 、ことに宗の淵源を尽くし、教の理知をきはめて、こ
しゅうしょうりゅうのたいそしょうにん(げんくう)、ことにしゅうのえんげんをつくし、 きょうのりちをきはめて、こ

 
れをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入
れをのべたまふに、 たちどころにたりきせっしょうの しいしゅをじゅとくし、 あくまでぼんぷじきにゅう

 
の真心を決定しましましけり。

のしんしんをけつじょうしましましけり。
 


第三段

 
建仁3年癸亥 4月5日の夜寅の時 、上人(親鸞)夢想の告げましましき。
けんにんさんねんみずのとのい しがついつかのひのよ とらのとき、しょうにんむそうのつげましましき。

 
かの『記』 にいはく、六角堂の救世菩薩 、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白
かの『き』にいはく、ろっかくどうのくせぼさつ、 げんようたんごんのしょうそうの かたちをじげんして、 びゃく

 
衲 袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命しての
のうのけさをちゃくぶくせしめ、 こうだいのびゃくれんげにたんざして、 ぜんしん(しんらん)にごうみょうしての

 
たまはく、「行者宿報 設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導
たまはく、「ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん がじょうぎょくにょしんびぼん いっしょうしけんのうしょうごん りんじゅういんどう

 
生極楽」といへり。救世菩薩 善信にのたまはく、「これはこれわが誓願な
しょうごくらく」といへり。くせぼさつ ぜんしんにのたまはく、「これはこれわがせいがんな

 
り。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。その
り。ぜんしんこのせいがんのしいしゅをせんぜつして、 いっさいぐんじょうにきかしむべし」とうんぬん。 その

 
とき善信夢のうちにありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる 岳
ときぜんしんゆめのうちにありながら、みどうのしょうめんにしてとうぼうをみれば、ががたるがく

 
山あり。その高山に数千万億の友情群衆せりとみゆ。そのとき告命のごとく、
さんあり。そのこうざんすせんまんおくのうじょうくんじゅうせりとみゆ。そのときごうみょうのごとく、

 
この文のこころを、かの山にあつまれる友情に対して説ききかしめをはるとお
このもんのこころを、かのやまにあつまれるうじょうにたいしてとききかしめをはるとお

 
ぼえて、夢さめをはりぬと云々。つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずる
ぼえて、ゆめさめをはりぬとうんぬん。 つらつらこのきろくをひらきてかのむそうをあんずる

 
に、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかあれば聖人(親鸞)、
に、ひとへにしんしゅうはんじょうのきずい、ねんぶつぐこうのひょうじなり。しかあればしょうにん(しんらん)、

 
後の時仰せられてのたまはく、「仏教むかし西天(印度)よりおこりて、経論い
のちのときおおせられてのたまはく、「ぶっきょうむかしさいてん(いんど)よりおこりて、きょうろんい

 
ま東土(日本)に伝はる。これひとへに上宮太子(聖徳太子)の広徳、山よりも
まとうどにつたはる。これひとへにじょうぐうたいしのこうとく、やまよりも

 
たかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇 に、これをわたされしにより
たかくうみよりもふかし。わがちょうきんめいてんのうのぎょうに、これをわたされしにより

 
て、すなはち浄土の正依経論等こときに来至す。儲君(聖徳太子)もし厚恩
て、すなはちじょうどのしょうえきょうろんとうこのときにらいしす。ちょくん(しょうとくたいし)もしこうおん

 
を施したまはずは、凡寓いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち
をほどこしたまはずは、ぼんぐいかでかぐせいにあふことをえん。くせぼさつはすなはち

 
儲君の本地なれば、垂迹興法の願 をあらはさんがために本地の尊容をしめすと
ちょくんのほんじなれば、すいしゃくこうぼうのがんをあらはさんがためにほんじのそんようをしめすと

 
ころなり。そもそもまた大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまはずは、わ
ころなり。そもそもまただいししょうにんげんくうもしるけいにしょせられたまはずは、わ

 
れまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか
れまたはいしょにおもむかんや。もしわれはいしょにおもむかずんば、なにによりてか

 
辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩知なり。大師聖人すなはち勢至の化
へんぴのぐんるをけせん。これなほしきょうのおんちなり。だいししょうにんすなはちせいしのけ

 
身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の
しん、たいしまたかんのんのすいしゃくなり。このゆゑにわれにぼさつのいんどうにじゅんじて、にょらいの

 
本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんな
ほんがんをひろむるにあり。しんしゅうこれによりてこうじ、ねんぶつこれによりてさかんな

 
り。これしがしながら 聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案 愚昧の今案をかまへず、か
り。これしかしながらしょうじゃのきょうけによりて、さらにぐまいのこんあんをかまへず、か

 
の二大士の重願、ただ一仏名 を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士 脇士に事
のにだいじのじゅうがん、ただいちぶつみょうをせんねんするにたれり。いまのぎょうじゃ、あやまりてきょうじにつか

 
ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀)を仰ぐべし」と云々。かるがゆゑに
ふることなかれ、ただちにほんぶつ(あみだ)をあおぐべし」とうんぬん。かるがゆゑに

 
上人親鸞、傍らに皇太子(聖徳太子)を崇めたまふ。けだしこれ仏法弘通のお
しょうにんしんらん、かたわらにこうたいし(しょうとくたいし)をあがめたまふ。けだしこれぶっぽうぐずうのお

 
ほいなる恩を謝せんがためなり。

ほいなるおんをしゃせんがためなり。
 
天児屋根尊 記紀にあらわれた神名。大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏(後の藤原氏)の祖神。 <本文 天児屋根尊  へ>
鎌子 藤原鎌足(614ー669)のこと。 <本文 鎌子へ>
内麿公 藤原鎌足の五代の孫、藤原内麿のこと。 <本文 内麿公 へ>
房前公 (681ー737)藤原氏北家の祖。 <本文 房前公 へ>
五代の孫 有範は有国の六代の孫にあたる。ここは、有範の父経尹(つねただ)を脱した系図によって数えられたと考えられている。 <本文 五代の孫へ>
皇太后宮大進 皇太后宮職の第三等官。 <本文 皇太后宮大進 へ>
射山にわしりて 射山は上皇の御所をいう。上皇に仕えて。 <本文 射山にわしりて へ>
利生 衆生を利益すること。 <本文 利生 へ>
九歳 養和元年(1181)。 <本文 九歳 へ>
法性寺殿 藤原忠通(ただみち)(1097ー1164)のこと。 <本文 法性寺殿 へ>
月輪殿 九条兼実(1149ー1207)のこと。 <本文 月輪殿 へ>
南岳・天台 中国天台宗の祖。南嶽大師慧思(えじ)(515ー577)と天台大師智顗(ちぎ)(538ー597) をいう。 <本文 南岳・天台へ>
三観仏乗の理 空・仮・中の三種の観法によって生きとし生けるすべてのものがさとりをひらくとする教え。 <本文 三観仏乗の理 へ>
楞厳横川 比叡山横川の首楞厳院に住した源信和尚の流れを汲んで。 <本文 楞厳横川へ>
四教円融の義 釈尊一代の教説を蔵・通・別・円の四教に分け、『法華経』にはその一切がまどかにそなわっているとする 天台宗の教義。 <本文 四教円融の義へ>

建仁第一の暦 建仁元年(1201)。「建仁第三」とする異本がある。 <本文 建仁第一の暦 へ>
大祖聖人(源空) 法然の諱(いみな)。 <本文 大祖聖人(源空) へ>
凡夫直入 凡夫のままで真実報土に往生せしめられること。 <本文 凡夫直入 へ>

癸亥 「辛酉」とする異本もある。辛酉は建仁元年にあたる。 <本文 癸亥 へ>
寅の時 午前四時頃。 <本文 寅の時 へ>
かの『記』 高田派専修寺蔵の『親鸞夢記』(真仏上人書写)を指すか。 <本文 かの『記』 へ>
救世菩薩 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)のこと。 <本文 救世菩薩 へ>
衲 棄ててかえりみられなくなった布を縫い合わせてつくった衣。転じて僧衣のこと。 <本文 衲 へ>
行者宿報・・・ 「行者、宿報にてたとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあひだ、 よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん」 <本文 行者宿報 へ>
峨々たる 高くけわしい。 <本文 峨々たる へ>
御宇 天皇の在位期間。 <本文 御宇 へ>
垂迹興法の願 観音菩薩が仮に人間の姿を現して仏法を興隆させようとする願い。 <本文 垂迹興法の願 へ>
しかしながら すべて。 <本文 しかしながら へ>
愚昧の今案 愚かであいまいな自分の考え。 <本文 愚昧の今案 へ>
一仏名 南無阿弥陀仏を指す。 <本文 一仏名 へ>
脇士 阿弥陀仏の脇座に侍る観世音菩薩と大勢至菩薩。 <本文 脇士 へ>