(仏教研修会 第342回) 2002/8/25 浄土真宗の歴史に学ぶ
『歎異抄』が語る親鸞聖人9
1.『歎異抄』の第五条
第五条 現代語訳
この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生ま れかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
この念仏が、もしわたしが善い行いをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳 を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開い たならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏のもつ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげ ます。
このように、聖人は仰せになりました。
第五条 原文
親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まふしたることいまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、 仏になりて、たすけさふらうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、 自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、 神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
第五条 要旨
当時、死んだ人のしあわせを願って念仏する風習が盛んであったが、親鸞は、亡き父母を救うための念仏を、かつて一度もとなえたことがないという。これは、親不孝な発言ではないかと、不審な思いをいだかせる。親鸞はその理由をつぎのように説明する。
生きとし生けるものは、すべて強いきずなで結ばれており、生と死とをくりかえすあいだに、あるいは父母となり、兄弟姉妹ともなったので、父母を救うことは、実はすべてのいのちあるものを救うということでもあるから、それはとてもできないことである。
さらに、わたしのとなえる念仏は、わたしが善い行いをつみかさねて得たのでほなく、阿弥陀仏からたまわったものであるから、他人に施すことはできないからである、と。
そして、父母をはじめ、緑のある人びとを救うには、まず自らが浄土に生まれて、さとりを得て仏になったのちのことであるとする。