(仏教研修会 第338回) 2002/4/28 浄土真宗の歴史に学ぶ

『歎異抄』が語る親鸞聖人5

1.『歎異抄』の第一条

第一条 現代語訳

 すべてのいのちあるものを救うという阿弥陀さまの不思議な誓願(本願)によって、か ならず浄土に生まれさせてくださると信じて、念仏をとなえようという心がおこるとき、 ただちに阿弥陀さまは、その光明の中におさめとり、決して見捨てはしないと、いだきと ってくださいます。

この阿弥陀さまの本願は、老人も若者も、善人も悪人も、わけへだてをされません。た だ阿弥陀さまの救いを信ずることが肝要であると心得なければなりません。なぜならば、 重い罪をもち、強い煩悩にさいなまれる人を、もらさず救うためにおこされた誓願だから です。

 それゆえ、阿弥陀さまの本願を信じる人は、念仏以外に、他の善い行いをする必要はあ りません。念仏よりもすぐれた善はないからです。また、どのような悪もおそれることは ありません。阿弥陀さまの本願をさまたげるほどの悪はないからです。

 このように、親鸞聖人は仰せになりました。

第一条 原 文
 弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばと ぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこ るとき、すなはち、摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信 心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の 衆生をたすけんがための願にまします。

 しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏 にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の 本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々。

第一条 要 旨
 この第一条には、浄土真宗の教えのかなめが簡潔に 示されている。

 まず、阿弥陀仏の、いのちあるものすべてを救うという 不思議な誓願(本願)を信じて、念仏しようと思うとき、 ただちに摂取不捨の利益をさずけてくださるという。

 摂取不捨とは、単に仏がおさめとって見捨てないという ことではない。親鸞は『浄土和讃』の中で、仏に背をむけ て逃げるものを、どこまでも追いかけて、ひとたびとらえ ると、決してはなさないことであるといっている。

 この念仏の教えにあいながらも、仏に背をむけて逃げま どう煩悩にまみれた人間が、仏の誓願は自分のためであっ たことを知らされて、仏を信じて念仏するとき、善人も悪 人もわけへだてなく、ただちに救われるという。