(仏教研修会 第317回) 2000/2/12 浄土真宗の歴史に学ぶ

東西分派の背景-15・16世紀における南都北嶺の動向-

興福寺と東大寺
応永33年(1426)正月、興福寺衆徒一千人、東大寺を攻め、尊勝院を破却。嘉吉元年(1441) 興福寺衆徒、東大寺の諸坊を破却。

文安4年(1447)春日社造営費の徴収をめぐり、興福寺衆徒、東大寺を攻める。

天文元年(1532)7月、奈良門徒一万人、興福寺を襲い、坊舎数百を焼く。

山門(比叡延暦寺)と寺門(三井園城寺)
治承2年(1178)学生と堂衆の争いの激化。「谷々の講演、堂々の行法も退転し、 修学の窓を閉じふさぎ、座禅の床には塵つもって300年の法灯はかかぐる人もなし。」 道快(慈円)はこのありさまをみて「いとどしく昔のあとや絶えなむと、思うも悲し 今朝の白雪」と詠み、翌年、兄九条兼実に「世間無益」と伝える。

永享5年(1433)7月、山門の衆徒、堂舎営繕等につき幕府に12か条の強訴。 8月、山門の衆徒、寺門が強訴に協力しなかったことを怒り、三井寺を、攻撃。幕府、 管領斯波義淳を派遣し三井寺を支援。

永享6年、将軍足利義教(もと天台座主)山門を攻撃。宗徒、根本中堂に火を放って自決 (24人)。逃る者を捕らえて殺す。

元亀元年(1571)9月、織田信長、比叡山を攻撃し、根本中堂をはじめ全山 の堂宇を焼き、多数の僧徒を殺した。

応仁・文明の乱(1467-77)山門は東軍細川方に加担して、西軍山名方の六角高頼を攻撃。

明応8年(1499)前将軍義稙と将軍義澄の争いに、山門は義稙を支援し、義澄の細川政元のため、 根本中堂をはじめ諸堂を焼かれた。

高野山における学侶と行人の紛争
永享2年(1430)7月、行人が学侶を殺害し、学侶すべて山を退散。 のち帰山。同5年、学侶、行人を攻め、坊舎二千を焼失。

報徳二年(1450)7月、両者の争いにより、学侶300人、行人700人が死亡。

紀伊根来寺における学侶と行人の紛争
応永34年(1427)根来寺の学侶、猿楽の桟敷の事で行人と争い、行人二千余人寺を去り、 伽藍等百余宇を焼失。

寛正元年(1460)5月、根来の衆徒、粉河寺と水論。仲介の畠山義就と戦い、死者千余人。
畠山の内紛に、根来寺は畠山政長を支援。高野山は畠山義就を支援して争う。

根来寺は五千の兵を擁し、石山戦争には本願寺を支援。