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法然上人の専修念仏に帰依 比叡でさとりを得られず山を下る
聖徳太子が建てた京都の六角堂に100日こもり、本尊の救世観音に行くべき道の指示を求め、太子の示現を得て法然上人の門下に入る。
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親鸞は20年間の比叡の修行にさとりを得ることができず、建仁元年
(1201)29歳のとき、山を下り六角堂に百日参籠を志し、今後の身の処
し方について教えを請うた。95日目の明け方に、聖徳太子が現われ、偈
文をとなえて行くべき道を示された。この太子の指示によって法然のも
とをたずねた。
その太子示現の文の内容は明らかではないが、「聖徳太子廟窟偈」で
あろう。それは浄土教によって救われることが示されていた。
このころの親鸞の悩みは、天台宗の修行を続けるべきか、浄土教に入
るべきかということにあったようで、この太子の示現によって、浄土教
への転入を決断した。
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親鸞が六角堂に参籠したとき、法然は69歳、承安5年(1175)に中国
の善導の著わした『観無量寿経疏』に感銘し、専修念仏に帰依してか
ら26年も経っていた。3年前の建久9年(1198)には慈円の兄、関白九条
兼実の要請で主著の『選択本願念仏集』を書き、法然の説く念仏は貴
族や武士および一般民衆にひろく浸透し、その教勢は最高潮に達した時
期であった。その法然の名声を比叡の修行者たちもよく知っており、法
然一門に加わる者もいたが、また強い敵意をいだく者もいた。親鸞の師
慈円は法然教団に所属する人の破戒行為を強く批判していた。こうした
事情もあって、親鸞は六角堂参籠において解決を仰いだのであった。
親鸞は太子の示現を得て、法然のもとに100日の間、仏法を聴くため
に通い、ついに念仏によって救われる身となったのである。
以下に右ページのテキスト部分を記載します
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聖徳太子の指示で法然上人のところへ
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河内国磯長(大阪府南河内郡太子
町)の叡福寺に、聖徳太子の廟
(墓)がある。その廟の前に太子
の徳をたたえる七言二十句の偈文
(漢文のうた)がしるされていた。
親鸞聖人がその中のハ句を抜書きした
自筆の文が現存する。その内容は、
太子の母は阿弥陀仏、太子は観音
菩薩、妻は勢至菩薩の化身で、日
本で浄土教をひろめるために生ま
れてきた、としるしている。
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親鷲聖人の妻恵信尼様の手紙に、この六角堂
参籠のことがしるされ、参籠ののち法
然上人のもとに降雨・日照・大風にかかわ
らず、100日通ったとあるので、6
月の梅雨、7月の酷暑、8月の台風の
季節であろう。そうであれば、六角堂
に参籠したのは3・4・5の3か月と
いうことになる。
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選択本願念仏集
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はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のな
かに、しばらく聖道門を聞きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らん
と欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正
行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を
傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこ
れ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願
によるがゆゑなり。
ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立
ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至る
まで、自行化他ただ念仏を縡とす。しかるあひだ希に津を問ふものには、
示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念
仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは尠なし。
まさに知るべし。浄土の教、時機を叩きて行運に当れり。念仏の行、水月
を感じて昇降を得たり。しかるにいま図らざるに仰せを蒙る。辞謝するに
地なし。よりていまなまじひに念仏の要文を集めて、あまつさへ念仏の要
義を述ぶ。ただ命旨を顧みて不敏を顧みず。これすなはち無慚無愧のはな
はだしきなり。庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の
前に遺すことなかれ。おそらくほ破法の人をして、悪道に堕せしめざらん
がためなり。
選択本願念仏集
元久元年十一月二十八日書写しをはりぬ。
願はくはこの功徳をもつて、一仏土に往生せんのみ。
元久元年十二月二十七日 源 空(花押)
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