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信心の論争 法然上人と親鸞聖人の信心は同じ
法然上人の門下において、親鸞聖人と他の門弟との間で「信心じょう論」(信心についての論争)と「信行両座」(信心か念仏の行か)という二つの論争が行われた。
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親鸞聖人が、「自分の信心も師の法然上人の信心も、すこしもかわること
なく同じである」と発言した。これを聞いた正信・勢観・念仏などの
有力門弟たちが、とんでもないことだと反対した。
親鸞聖人は、「法然上人と智慧や学問が等しいというのはとんでもない間
違いであるが、浄土に生まれる信心は、阿弥陀仏からたまわったもので
あるから同じである」と答えた。
これを聞いた法然上人は、「信心が異なるというのは自力の信心について
のことで、他力の信心は仏からたまわったものであるから、法然上人の信心
も親鸞の信心も同じである」といったという。
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ある時、親鸞聖人は法然上人の許可を得て、信不退と行不退の二つの座(エリ
ア)を設け、門弟たちにあなたはどの座につくかと尋ねた。
そのとき信不退の座についたのは、親鸞聖人と信空・聖覚・法力(熊谷直
実)だけで、他の門弟たちは態度を明らかにしなかった。やがて法然上人も
信不退の座についた。信不退・行不退とは、信心で浄土に生まれるか、
念仏の行をはげんで浄土に行くかということである。親鸞聖人は、阿弥陀仏
の本願(願い)のいわれをきき、それを信じたとき、浄土に生まれる資
格を得るのであって、念仏の行をはげみ、念仏をとなえた功績をつみか
さねて浄土行きを願うことを否定した。
それは親鸞聖人が、自分は善いことをつみかさねる自力の行のできない無
力な人間であるとの反省によって、阿弥陀仏の救いを信じて助かる道を
選んだからであった。
以下にテキストの右ページ部分を記載します
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信心のない念仏はダメ
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一念
一声の念仏でも浄土に生
まれることができるとい
う考え
多念
念仏を多くとなえて浄土
往生を願うこと
法然上人は、一念往生を認
める発言をしているが、
彼自身は一日に数万遍
の念仏をとなえた。
親鸞聖人と法然上人の会話
親鸞聖人…… 私と法然さまは同じ
法然上人…… わしも親鸞も信心においては同じ
他の人……… 親鸞はとんでもないやつだ
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親鸞聖人はは『高僧和讃』の
中で、「本師源空(法然上人)
世にいでて、弘願の一
乗(すべての人を救う
念仏の教え)ひろめつ
つ、日本一州ことごと
く、浄土の機縁(浄土
に生まれるチャンス)
あらはれぬ」とたたえ
ている。
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